発端までとは? わかりやすく解説

発端まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:29 UTC 版)

会津征伐」の記事における「発端まで」の解説

慶長3年1598年)、豊臣秀吉死去秀吉から生前嫡子豊臣秀頼成人するまでの間、政治託され徳川家康台頭する秀吉死後家康動向を以下にまとめる。 慶長3年1598年8月18日秀吉死去10月25日五大老五奉行から、日本軍朝鮮からの帰国命じられる11月半ばまでに撤退完了11月26日家康長宗我部元親屋敷訪問12月3日家康新庄直頼屋敷訪問12月6日家康島津義久屋敷細川幽斎屋敷訪問12月11日増田長盛屋敷訪問慶長4年1599年1月3日島津義弘義久の弟)と島津忠恒義弘三男)の屋敷訪問このように家康諸大名屋敷頻繁に訪問したが、この訪問は他の大老奉行には無断行われており、豊臣政権法令一つ傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものであった。 また家康はこの時期、他の大老奉行無断諸大名との縁組行っている。その縁組次の通り松平忠輝家康の六男)と五郎八姫伊達政宗の娘)。 満天姫松平康元の娘、家康の姪で養女)と福島正之福島正則養子)。 万姫小笠原秀政の娘、家康曾孫養女)と蜂須賀至鎮蜂須賀家政嫡男)。 かな(水野忠重の娘、家康従妹養女)と加藤清正栄姫保科正直の娘、家康の姪で養女)と黒田長政。 これは豊臣政権法令1つ諸大名無許可での縁組禁止」に違反する行為であったため、慶長4年1月19日豊臣氏から無断婚姻問罪使として三中老生駒親正中村一氏堀尾吉晴)らが派遣された。家康追及をかわし、2月2日前田利家らと誓書を交わすことで和睦した。 しかし閏3月3日、利家が死去同日かねてから石田三成対立関係にあった加藤清正福島正則ら七将が、三成大坂屋敷襲撃した三成事前に襲撃知り佐竹義宣助力得て伏見城内の自邸逃れる。なお家康邸に逃げ込んだとするのは根拠のない俗説である。その後家康仲裁乗り出し仲裁結果三成五奉行から退隠佐和山城蟄居となる。 9月7日家康大坂へ入る。宿所三成屋敷9月9日家康重陽の節句のために大坂城登城し賀意述べる。 9月12日家康宿所三成屋敷から石田正澄三成の兄)の屋敷変更9月28日家康大坂城西の丸に入る。 10月2日家康浅野長政土方雄久大野治長らが家康暗殺謀ったとして処罰する長政甲斐府中蟄居。治長は下総、雄久は常陸それぞれ流罪また、前田利長事件に関わっているとして「加賀討伐」の噂が流れるが、利長は生母芳春院人質として江戸に送ることとなったその後家康豊臣氏蔵入地諸大名分け与えた遠江浜松12万石堀尾吉晴越前府中5万石を加増丹後宮津12万石細川忠興豊後杵築6万石加増美濃金山7万石森忠政を、信濃川中島137000石に加増移封対馬府中1万石の宗義智1万石を加増

※この「発端まで」の解説は、「会津征伐」の解説の一部です。
「発端まで」を含む「会津征伐」の記事については、「会津征伐」の概要を参照ください。

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