構想と台本
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「神々の黄昏 (楽劇)」の記事における「構想と台本」の解説
ヤーコプ・グリムが出版した『ドイツ神話』からワーグナーが『ニーベルンゲンの歌』などを知ったのは1843年であった。1848年11月、ワーグナーは『ジークフリートの死』の台本草案を書き、これが後の『神々の黄昏』となる。詳細は、#『ジークフリートの死』の成立過程を参照のこと。 1851年、ワーグナーは『ジークフリートの死』の前編に当たる『若きジークフリート』(後の『ジークフリート』)を構想、この構想はさらに物語の発端まで拡大されていく。その詳細については『ニーベルングの指環』及び『ラインの黄金』も参照のこと。 1852年7月に『ヴァルキューレ』(第一日)、同年11月に『ラインの黄金』(序夜)の台本が完成。同年12月、四部作化に伴って『ジークフリートの死』、『若きジークフリート』の台本が手直しされた。 1863年、台本の公刊に際し、『ジークフリートの死』は『神々の黄昏』と改題された。同様に『若きジークフリート』も『ジークフリート』に改題されている。
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構想と台本
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「ワルキューレ (楽劇)」の記事における「構想と台本」の解説
ヤーコプ・グリムが出版した『ドイツ神話』からワーグナーが『ニーベルンゲンの歌』などを知ったのは1843年であった。1848年11月には、後の『神々の黄昏』に当たる『ジークフリートの死』の台本草案を書き、1851年にその前編に当たる『若きジークフリート』(後の『ジークフリート』)を構想、この構想はさらに物語の発端まで拡大されていく。その詳細については『ニーベルングの指環』及び『ラインの黄金』も参照のこと。 1851年10月から『ラインの黄金』の散文スケッチが開始され、1月後の11月から『ヴァルキューレ』のスケッチにも着手。この前後まで、『ラインの黄金』は「ラインの黄金の掠奪」ないしは単に「掠奪」とされ、『ヴァルキューレ』は「ジークムントとジークリンデ;ヴァルキューレの処罰」と題されていたが、ワーグナーが同年11月20日にフランツ・リストに当てた手紙では現在のDie Walküreとなっている。 スケッチは『ヴァルキューレ』の方が早く、翌1852年5月17日から28日に書かれた。この散文スケッチの時点では、現在の形と相違がある。例えば、第2幕の終わりでフンディングは、ヴォータンの「行け!」のひとことで倒されるが、スケッチでは死なずにフリッカに報告に行くようになっていた。これらは、6月からの1ヶ月間に台詞が書かれる中で修正された。 同年11月、『ヴァルキューレ』に遅れること約半年で『ラインの黄金』が完成。同じ年の12月には四部作の台本がすべて完成した。
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構想と台本
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「ジークフリート (楽劇)」の記事における「構想と台本」の解説
ヤーコプ・グリムが出版した『ドイツ神話』からワーグナーが『ニーベルンゲンの歌』などを知ったのは1843年であった。1848年11月には、後の『神々の黄昏』に当たる『ジークフリートの死』の台本草案を書き、1851年にその前編に当たる『若きジークフリート』(後の『ジークフリート』)を構想、この構想はさらに物語の発端まで拡大されていく。その詳細については『ニーベルングの指環』および『ラインの黄金』も参照のこと。 『若きジークフリート』は1851年5月に構想され、6月にはその散文原稿と韻文草稿が成立する。 1852年12月、四部作の台本すべてが完成する。 1856年、全体構想の四部作化に伴い、『若きジークフリート』に手が加えられる。 1863年、台本の公刊に際し、『ジークフリート』と改題された。『神々の黄昏』も同様に改題されている。
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構想と台本
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1843年7月にワーグナーはヤーコプ・グリムが出版した『ドイツ神話』を読んで、同書で紹介されていた『ニーベルンゲンの歌』などを知る。 1848年10月4日、ドレスデン宮廷歌劇場の指揮者をしていたワーグナーは、ドイツ神話を下敷きにした随筆『ニーベルンゲン神話』を完成。これは後のオペラ作品の構想メモの性格を持つ。当時、ワーグナーには中世の伝説的英雄フリードリヒ1世(赤髭王)を主人公としたオペラの構想があったが、同年夏に『ヴィーベルンゲン一族』を書いてこの構想に決着を付け、『ニーベルンゲンの歌』のジークフリートに移行したとされている。 同年11月、オペラ『ジークフリートの死』(全3幕)の台本草案を書く。。 1849年5月、ワーグナーが荷担したドレスデン蜂起が失敗、フランツ・リストの援助を得てスイスのチューリヒに脱出する。この事件は、前年に完成していた『ローエングリン』の上演の目処が立たなくなったことをはじめ、ワーグナーの創作活動に多大な影響を及ぼした。 エードゥアルト・ドゥヴリアンによって『ジークフリートの死』に叙事詩的回想が多く含まれていることを指摘されたワーグナーは、これを受け容れて1851年5月、『ジークフリートの死』の前編に当たる『若きジークフリート』を構想する。その後も『エッダ』や『ヴォルスンガ・サガ』の要素を採り入れながら、ジークフリートの死という終末からその発端にまでさかのぼって構想が拡大された。 1852年7月に『ヴァルキューレ』(第1夜)、同年11月に『ラインの黄金』(序夜)の台本が仕上がる。この年の12月には4部作の台本がすべて完成した。最初に構想されていた『ジークフリートの死』は『神々の黄昏』(第3夜)、『若きジークフリート』は『ジークフリート』(第2夜)となった。
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