構想と背景
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この作品が生まれた背景には、つげにこだわりたいがために日本読書新聞の記者から1966年に青林堂へ転職した編集者、権藤晋(本名:高野慎三)の多大な尽力がある。当時すでに『ガロ』に『沼』『チーコ』『初茸がり』などの作品を発表し新境地を切り開いたかに見えたつげであったが、山根貞男など一握りを除き、漫画界では多くが作品に否定的であった。水木しげるも『初茸がり』は童画的でいいが、『沼』はさっぱりわからないと発言し、つげ作品を絶賛する権藤に向かって「おたくもアタマおかしいですナ」と大笑いしたという。その半年後、青林堂社員となった権藤が入社数日後に水木プロを訪問した際に初めてつげに会う。『チーコ』を描いたあと、生活費を稼ぐため自ら志願して水木プロの仕事を手伝っていた。その後、作品の評判が良くないので漫画をやめることを考えていると打ち明けたつげに対し、権藤は上述の3作品は表現の可能性を開示した作品であると考えていると述べ、早く新作を描くよう励まし続けた。その後、つげの4畳半一間のアパートの自宅に招かれた権藤は、つげとの対話の中で様々な作品の構想を聞きだした。それからのつげは毎日のように水木プロの仕事を手伝いながら、帰宅後深夜まで自身の作品に手を入れ、毎月のように完成度の高い作品を送り出した。『海辺の叙景』(1967年9月)、『紅い花』(1967年10月)、『西部田村事件』(1967年12月)、『長八の宿』(1968年1月)、『二岐渓谷』(1968年2月)、『オンドル小屋』(1968年4月)、『ほんやら洞のべんさん』(1968年6月)と続き、『月刊漫画ガロ』6月増刊号「つげ義春特集」についに『ねじ式』が発表された。
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構想と背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 21:48 UTC 版)
山野によると本作は出版社でのバイト経験が下敷きになっており、実際に下請けの印刷所で印刷工が機械に巻き込まれる事故が起きていたという。また山野は本作を描いた頃、家賃1万6千円、風呂なし共同便所の殺風景な四畳半の木造アパートでガスも電話も止められ、荒廃した漫画家生活を送っていたと述べており、その窮乏した生活環境で生まれた作品が本作であるという。連載当時はバブル前夜であり金余りの世相にありながら『ガロ』の部数低迷と青林堂の経営不振が原因で連載中は原稿料が全く支払われず、連載終了後の単行本化でようやく僅かな印税収入を得る。連載当時『ガロ』は部数を実売3000部台にまで落としており、版元の青林堂も材木店倉庫の二階を間借りして細々と営業する経営難を経験している。なお青林堂より本書の初版が刊行された1986年12月は日本経済が本格的なバブル景気に突入した時期とされている。 また「あとがき」の中で山野は「社会になじめない劣等感、バブルで調子こいた世相への憎悪、そういった鬱屈を、この極端な作品を描くことで解消し、心のバランスをとっていたのかもしれない」と述べており、当時置かれていた環境による心理的重圧が構想の元になった事を明かしている。また徹底して救いのない鬼畜漫画を描き続ける事に関して山野は『ガロ』1992年6月号のインタビューで「惨めな境遇にある者が幸福になるなんて絶対に許せないですよね。正しくないですよ。僕は正しい漫画を描いているのにな。理不尽な差別を受けて、皆から嫌われ蔑まれている者が爽やかな幸福を手に入れるなんて誰も納得しませんよ。運命からは逃れられない」と答えている。
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