田子倉ダム補償事件
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田子倉ダムは1949年(昭和24年)6月より地質調査に入ったが、その前年の1948年(昭和23年)に、伊北小学校において只見川電源開発説明会が、当時の事業主体であった日本発送電によって実施された。ダムによって水没する田子倉集落は山間部の僻地ではあったが、マタギの里であり、林業等が盛んだったこともあり生活水準は他の山村に比べ遥かに高く、電話に加入していた世帯も数軒あった。このため、水没する田子倉集落50戸290人の住民はダム建設に対し激しい反対運動を繰り広げ、事業計画はたちまち膠着状態に陥った。交渉は一向に進展せぬまま5年が流れ、打開策を求めた住民は、1953年(昭和28年)6月27日、福島県知事大竹作摩に問題解決のための陳情を行った。これを受けて知事は補償に関する斡旋案を呈示、事業主体となっていた電源開発に斡旋案の受け入れを迫った。早期の事業進捗を願っていた電源開発はこの斡旋案を受け入れたが、この斡旋案に呈示された補償金額を巡って、大きな社会問題となった。これを田子倉ダム補償事件と呼ぶ。 問題となった補償金額は当時の一般的な相場に比べて明らかに高額なものであった。具体的な金額は不明だが、参考までに奥只見ダムの補償額を例示すると1軒当り300万円 - 700万円。これは当時の建売住宅1軒の分譲価格が100万円程度であったことを考えると極めて高額であり、田子倉ダムにおいても同様の条件であったと推察される。ところが、この斡旋案に対し電力行政を管掌する通商産業省(現・経済産業省)公益事業局と河川行政を管掌する建設省(現・国土交通省)河川局が猛烈に反対した。理由は余りにも高額な補償金額で妥結してしまうと、今後計画・施工される公共事業の事業進捗に著しい影響を及ぼすというものであった。当時は「河川総合開発事業」による多目的ダム建設が全国的に展開されていたこともあり、他のダム事業での補償交渉に差し支えることを極度に恐れたのが本音である。事実、新聞報道などでこの内容が発表されると、全国のダム建設予定地の住民は補償金の吊り上げに走り、交渉が長期化する例も出た。一方で補償に関する法整備の重要性が官民両方から叫ばれ、1961年(昭和36年)には「公共用地取得に関する特別措置法」が制定され、後の「水源地域対策特別措置法」への礎となって行く。 補償事件は、結局電源開発側が一旦受け入れた斡旋案を拒否し、改めて低水準での補償金額による妥結を住民側に呈示した。1954年(昭和29年)4月14日50戸の住民のうち32戸が補償内容に応じ、交渉を受け入れた。電源開発はこれ以降、東北電力出身で田子倉発電所建設所長となった北松友義を総責任者として「補償対策推進本部」を設置。土地収用法による強制収用も視野に入れながら残る住民との補償交渉に臨んだ。1955年(昭和30年)に入ると残る18戸の内13戸も補償基準に応じて交渉が妥結した。しかし残る5戸は最後まで応じず、測量の妨害などを行い抵抗したが、最終的に1956年(昭和31年)7月25日に補償基準に応じて妥結。こうして、足掛け8年に及ぶ補償交渉は完全に妥結した。だが、補償交渉の第一線に臨み「只見川の鬼」と罵倒され、命を危険に冒しながらも誠意を持って住民と向き合った北松は、激務が祟り、視力を悪化させ、ダム完成を見ることなく職を去ることとなった。 また、この後の電源開発は初代総裁高碕達之助らの意向もあって、補償問題でしばしば長期化した建設省施工のダム事業とは一線を画し、御母衣ダムにおける『幸福の覚書』に知られるような独自の補償方針を貫くこととなる。
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