難航する補償と工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:09 UTC 版)
こうして現在地点にダム建設が計画された訳であるが、先ず問題となったのは補償交渉であった。ダム水没地は明暦年間に越後高田藩が銀山を開発して以降集落が形成され、予定された水没世帯数は38世帯であった。だが下流に1949年より実施計画調査を始めていた田子倉ダムが、田子倉集落の猛反対に遭い、その対策として電源開発が福島県知事斡旋案を一旦受け入れたことによる「田子倉ダム補償事件」が1954年に発生した。当時の補償額相場を遥かに凌駕する補償額呈示に対し河川行政を所管する建設省(現国土交通省)と電力行政を所管する通商産業省(現経済産業省)が猛反発。結果として相場に近い額で補償妥結となったが、奥只見ダムを含む全国のダム建設に多大な影響を与えた。ダム補償交渉は同年末に妥結されたが、1戸当たり300万円~700万円の補償額であったという。これは当時住宅1軒の建売り価格が100万円程度であったことを考えると破格の額である。 補償妥結後、1954年12月より資材運搬用道路の建設に取り掛かった。ダムサイトは険阻な山岳地帯で且つ豪雪地帯である為、尋常の手段では順調な建設進捗は望むべくもなかった。このため国道352号・枝折峠を貫く総延長22kmの道路建設を企図した。豪雪に備えるため総延長のうち18kmはトンネルとするものである。これが後の奥只見シルバーラインであるが、着工から3年後の1957年11月に完成するまでの間に延180万人の人員を投入、最盛期には1日当たり3,700人が建設に従事する難工事でもあった。工事に伴う殉職者は44名で内17名は雪崩や凍死によるものであった。工事用道路建設が終了しこの年の5月より本体工事に着手したが、トンネル建設と同様に険阻な地形と厳しい気象条件に度々阻まれた。加えて夏季には未開の渓流であるために大量のブヨが発生し工事関係者を襲うなど自然の脅威に悩まされ続けた。 1960年には本体工事も最終局面を迎え、一部湛水を行いながら発電を開始。翌1961年7月、ダムは完成し発電も本格稼動することになった。総工費は約360億円であり、同時期に完成した黒部ダム(黒部川)と並んで日本のダムの歴史における金字塔となった。
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