難航した資金調達とテナント探し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:02 UTC 版)
「霞が関ビルディング」の記事における「難航した資金調達とテナント探し」の解説
昭和40年不況にもろにぶつかり、資金調達とテナント探しはいずれも難航した。建設には150億円もの巨額資金を調達する必要があったが、金融難の折から、三井系大企業の再建に追われていた三井銀行と三井信託銀行を全面的に頼ることはできなかった。日本開発銀行が「超高層ビルの技術開発」のためとして、60億円の融資を約束したが、大蔵省が待ったをかけ、この話も流れてしまった。弱りきった江戸が面識のあった第一生命の村上兼次副社長のもとを訪ね窮状を訴えると、村上がほかの生保にも呼びかけてくれることを約し、生保5社で融資団を結成、75億円の資金を集めてくれた。さらに、銀行5行の融資団もでき、合計100億円の融資のメドがついた。 テナントはビルが完工する1年前から受け付けを開始した。日本最初の超高層ビルということで、マスコミは早くから大きく取り上げ、2、3階、それに地下1階のショッピングゾーンは、またたく間に成約をみたものの、オフィス部分は打診はあっても、ビル不況のときで、なかなか成約に結びつかなかった。このため江戸がトップセールスでテナント探しにかけずり回った。テナント候補企業のなかには、超高層ビルは地震のとき危険だという先入観を抱き、二の足を踏むところもあった。そこで安全性を科学的に説明した映画をみせたりして、PRに努めた。そうした熱心な売り込みが奏効し、竣工年の秋には満室となった。
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