難航する和平への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 18:14 UTC 版)
「自由アチェ運動」の記事における「難航する和平への道」の解説
2000年2月、アチェ女性会議と全アチェ学生・青年会議第二回大会が開催され、アチェ問題について検討する「アチェ人民会議」が開催されることになった。GAMは当初この会議への参加に肯定的だったが、会議の結果が事前に中央政府寄りになるよう調整されていると主張して会議の開催自体に否定的となった。このとき、アチェ人民会議関係者に対するテロ攻撃が続発し、GAMは関与を否定したものの会議関係者からはGAMによる犯行だと認識された。 同じく2000年、ワヒド政権において中央政府とGAMの間で一時的停戦合意が結ばれた。3月12日にグワナン国家官房長官が、4月13日にサアド人権大臣がジュネーブに派遣され、両者は非公式に和平交渉を行った。結果、5月12日に一時停戦の合意が成立し、その後3ヶ月間はアチェの治安は回復した。だが、西はこの合意について2つの問題点を挙げている。1つ目は、戦闘行為中止についての細則が定められていなかったことであり、双方は相手の行為を「戦闘行為」にあたると認定する一方で自身の行為は「正当防衛」や「通常巡回」の範疇として正当化した。2つ目はスイスでの事前協議に両者とも戦闘行為の当事者が参加していなかったことである。GAMからは亡命政府の閣僚が、インドネシア政府からはハサン・ウィラユダ国連担当大使が事前協議に参加していたが、どちらも戦闘行為の当事者ではなく、また双方とも戦闘当事者を十分に制御できるような環境ではなく、当事者不在の合意を現場に反映させることができなかったのだという。
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