生物学・進化生物学・進化生態学からの批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:53 UTC 版)
「哲学」の記事における「生物学・進化生物学・進化生態学からの批判」の解説
『利己的な遺伝子』の序文で、進化生物学者リチャード・ドーキンスは 多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、タイトルだけで本を読みたがる と述べている。前掲書の第一章ではこう述べる。 生命には意味があるのか? 私たちは何のためにいるのか? 人間とは何か? といった深遠な問題に出くわしても、もう迷信に頼る必要はない。著名な動物学者G・G・シンプソンはこの最後の疑問を提起したあとで、こう述べている。「私が強調したいのは、一八五九年[『種の起源』]以前には、この疑問に答えようとする試みはすべて無価値だったことと、回答せずに黙っているほうがましだったということである」。 哲学と、「人文学」と称する分野では、今なお、ダーウィンなど存在したことがないかのような教育がなされている。こうしたことがいずれ変わるであろうことは疑いない。 … この本の主張するところは、私たち、およびその他のあらゆる動物は、遺伝子によって創り出された機械にほかならないというものだ。 … 私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちで最も重要なのは非情な利己主義である、ということだ。 …遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の利他主義を助長することによって、自分自身の利己的な目標を最も達成できるような特別な状況も存在する。この文の「限られた(limited)」と「特別な(special)」という語は重要な言葉だ。そうでないと信じたいのはやまやまだが、普遍的な愛とか種全体の繁栄などというものは、進化的には意味をなさない概念にすぎない。 また進化生物学者・社会生物学者のロバート・L・トリヴァースは、前掲書へ以下の序文を寄稿した。 チンパンジーと人間とはその進化の歴史のほぼ九九・五%を共有している。にもかかわらず、大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーをでき損ないで見当違いの化けものと見なし、一方自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者から見れば、そのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠などは存在しないのだ。 同時にトリヴァースは「定量的データ」による実証を強調しており、『利己的な遺伝子』を邦訳した一員、動物行動学者の日髙敏隆は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、数学の言葉が必要である」としている。 哲学や人文学からの批判は、生物学へ、そして生物学について解説したドーキンスへ向かった。その批判は例えば、遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ、遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等)。批判に対しドーキンスは、前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しは、それを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ、無害な簡便語法である」と反論した。彼は次のようにも記している。 哲学という道具を教育によって過剰に賦与された一部の人々は、それが役に立たない場合にもその学問的装置でつつき回す誘惑に抵抗できないように思われる。私は、「しばしば高度な文学的・学問的趣味を持ち、しかし分析的思考を実行する能力をはるかに超えた教育を受けてきた膨大な数の人々」に対する「哲学的絵空事(フィクション)」の魅力についてのP・B・メダワーの意見を思い起こす。 また前掲書中でドーキンスは、文化的自己複製子「ミーム」の理論に関して 哲学的だろうが、そうでなかろうが、私の主張に欠陥があるとは誰も指摘できていないのが事実である。 と述べている。彼によると、破壊的で危険なミームの典型例は宗教であり、「信仰は精神疾患の一つとしての基準を満たしているように見える」。 なお、『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である進化生態学者・岸由二は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している。 四〇年を生き抜いた本書は、現代の進化論的生態学の視野をみごとに紹介する学術書、当該分野の研究・批評を志す者の必読の入門書として、評価も確定したと言ってよいだろう。
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