現代国際法と主権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:11 UTC 版)
他方、主権の教理は、国家間の関係において多大な影響を持った。ボダンは法を制定する主権者は、制定した法に拘束されない (majestas est summa in cives ac subditos legibusque soluta potestas)としたが、この思想は、主権は何者にも責任を持たないし、いかなる法にも拘束されないと解釈されるようになった。しかし、ボダンは、神の法、自然法、理性、そして全ての民族に普遍的な法 (jus gentium 万民法)、さらに主権者を決定したり主権の限界を定める国家の原理法などそこから主権が導出される諸々の基本原則を、主権は遵守すべきであると強調していた。このようにボダンにおいて主権は、国家の憲法や、全ての人類に拘束力を持つ高法(the higher law)によって制限される。これら諸々の基本原則は後年、国際法へと組織されていったが、他方で、ボダンの主権論は国際的な政治秩序において絶対主義を正当化するために使用されたのであった。 ボダンの主権論はさらにホッブズのリヴァイアサンにおいて発展された。ホッブズは主権を法よりも力として捕らえ、法とは主権者が指揮するものであり、主権を制限することはできない。主権は絶対的であると主張した。永遠の戦争状態である国際社会において、一主権者は他の主権者に対して主張を力によって強いる傾向にある。しかし、主権国家は、主張された権利を判定する論議を続け、また実際の戦争という手段をとって権利を主張したり、人民の保護や、他の国への影響を無視した経済政策をとるようになった。たとえば、欧州での征服はウィーン会議(1814~1815年)以降に法的に制限されるようになるが,欧州外の非文明地域は無主地とされ,国際法の主体とは認められず,多くの国は植民地とされた。また交戦国はみな自らの正当性を主張したから,戦争は事実上「国家の正当な権利」であるとされた。 しかし、20世紀に入ると国家の行動の自由を制限するようになった。1899年万国平和会議でハーグ陸戦条約が採択され、戦争が制限された。 第一次世界大戦後の1920年に発効された国際連盟規約では「締約国ハ戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾ス」(前文)「連盟各国ノ領土保全及現在ノ政治的独立ヲ尊重シ,且外部ノ侵略ニ対シ之ヲ擁護スルコトヲ約ス」(第10条)と規定され、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)では戦争放棄と平和的手段による紛争解決が規定された。 そして第二次世界大戦後の国際連合憲章において加盟国は国際紛争を平和的手段によって解決すること(第2条3項、紛争の平和的解決義務)、また「武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」(第2条4項、武力不行使原則)と規定され、同時に主権国家の主権は相互に平等であるという主権平等の原則も規定された(第2条1項)。主権平等の原則は1970年の友好関係原則宣言でも確認された。 このように征服と戦争は非合法化されるようになり、主権は国際機構や国際条約などによって制約が加えられているものの、国際連合においては国家の主権自体は否定されていない。 こうして現代国際法において主権の概念は、政治的統一体や共同体を保証することで諸国家の領界的膨張を防ぐ基盤的な規範としての側面を持つにいたった。グローバル化が進む中、統治の実権が国境を超えてゆく中で,主権だけが一定の領界を単位とした諸権利の調整を担いうるのであり、主権だけが人権等の普遍的価値を基軸とした政治的達成のための制度的基盤であるとされる。
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