渋沢栄一の実業界引退
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大正5年(1916年)7月、渋沢栄一は、第一銀行の定時株主総会において第一銀行頭取を辞するとともに実業界から引退することを発表。帝国ホテルにて引退披露会が開催された。引き続き神戸、大阪、名古屋にて披露披露会が開催されるため、喜太郎のほかには、渋沢武之助、尾高次郎、山下亀三郎、八十島親徳、前原厳太郎が随行した。 大正6年(1917年)3月、渋沢栄一は、再び神戸、大阪、奈良、京都、名古屋へ出張し、喜太郎は随行した。往路で偶然同車していた尾高次郎、蓮沼門三と歓談。神戸では、須磨の内田信也邸を訪問。奈良には、伊藤伝七、佐々木清麿、第一銀行京都支店長明石照男、大阪支店長野口弥三、神戸支店長杉田富が同行。京都では田中源太郎などと面談。名古屋ではいとう呉服店などを表敬訪問。 大正6年(1917年)10月、渋沢栄一は、北越および奥羽へ出張し、喜太郎は随行した。長岡、新潟、会津若松、米沢、山形、秋田、青森、盛岡、仙台、福島の各市を訪問。「青淵先生北越及奥羽旅行」と題した随行記を著した。 喜太郎が渋沢事務所へ転じてからの数年間、渋沢栄一は精力的に実業界および教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交を推進した。大正3年(1914年)8月16日、首相大隈重信は渋沢栄一ほか実業家を官邸に招き、第一次世界大戦への参戦を説明。同月、第一次世界大戦の影響を受け苦しんだ蚕糸業者の救済について尽力、10月には国産奨励会を組織、連合軍傷病兵救援会を設け、12月、明治神宮奉賛会の設立を計画した。同年秋ごろから翌大正4年(1915年)、東京市内に電灯及び電力を供給している東京市電気局・東京電灯株式会社及び日本電灯株式会社の統一に尽力。同年3月、蚕糸業者救済のため、帝国蚕糸会社の設立に努め、4月、サンフランシスコで開かれるパナマ太平洋万国博覧会に気勢を添えるため、観覧協会を組織。7月、日本郵船会社と東洋汽船会社との合併につき調停を行い、同月、中国広東水害救援に尽力した。大正5年(1916年)2月、日米関係委員会を組織、8月、東洋製鉄会社を発起し、10月、理化学研究所の創立に着手した。大正6年(1917年)1月、連合国傷病兵罹災者訪問会を設立、5月、日本郵船会社の紛擾を調停し、8月米国鉄材禁輸解除につき努力し、9月、早稲田大学維持員となり、10月、東京風水害救済会を設立し、11月、天津水害義助会を設立した。 これに加えて、訪米、訪中、前述を含む国内出張を試みたのみならず、来日外国要人との接遇を務めた。渋沢栄一の精力的な活動に伴い、八十島親徳、増田明六はもとより渋沢事務所は極めて多忙な日々を送った。大正8年(1919年)秋、神田乃武の推薦により、小畑久五郎が渋沢栄一の英文秘書役と日米関係委員会幹事として、渋沢事務所に参加。この間、八十島親徳、増田明六は他の会社にも顔を出すようになり、渋沢事務所の繁忙に拍車がかかった。大正9年(1920年)3月18日、学生時代からの恩人である八十島親徳が病没。八十島親徳の没後、増田明六は一層多忙になり、渋沢栄一の秘書役よりも渋沢同族株式会社の事務に時間を割かれ、取締役に選任されてからは更に繁劇となった。喜太郎は、渋沢栄一の秘書役となった。同年6月、第一銀行福岡支店支配人であった渡辺得男が渋沢同族株式会社に転じ、7月の株主総会で取締役に選任された。
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