渋沢栄一の実業界引退とは? わかりやすく解説

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渋沢栄一の実業界引退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 22:57 UTC 版)

白石喜太郎」の記事における「渋沢栄一の実業界引退」の解説

大正5年1916年7月渋沢栄一は、第一銀行定時株主総会において第一銀行頭取辞するとともに実業界から引退することを発表帝国ホテルにて引退披露会が開催された。引き続き神戸大阪名古屋にて披露披露会が開催されるため、喜太郎のほかには、渋沢武之助尾高次郎山下亀三郎八十島親徳前原太郎随行した大正6年1917年3月渋沢栄一は、再び神戸大阪奈良京都名古屋出張し、喜太郎随行した往路で偶然同車していた尾高次郎蓮沼門三歓談神戸では、須磨内田信也邸を訪問奈良には、伊藤伝七佐々木清麿第一銀行京都支店長明石照男大阪支店長野口弥三、神戸支店長杉田富が同行京都では田中源太郎などと面談名古屋はいとう呉服店などを表敬訪問大正6年1917年10月渋沢栄一は、北越および奥羽出張し、喜太郎随行した長岡新潟会津若松米沢山形秋田青森盛岡仙台福島の各市を訪問。「青淵先生北越奥羽旅行」と題した随行記を著した。 喜太郎渋沢事務所へ転じてからの数年間、渋沢栄一精力的に実業界および教育機関社会公共事業支援並びに民間外交推進した大正3年1914年8月16日首相大隈重信渋沢栄一ほか実業家官邸招き第一次世界大戦への参戦説明同月第一次世界大戦の影響を受け苦しんだ蚕糸業者の救済について尽力10月には国産奨励会組織連合軍傷病兵救援会設け12月明治神宮奉賛会設立計画した同年秋ごろから翌大正4年1915年)、東京市内に電灯及び電力供給している東京市電気局東京電灯株式会社及び日本電灯株式会社統一尽力同年3月蚕糸業救済のため、帝国蚕糸会社の設立努め4月サンフランシスコ開かれるパナマ太平洋万国博覧会気勢添えるため、観覧協会組織7月日本郵船会社東洋汽船会社との合併につき調停行い同月中国広東水害救援尽力した大正5年1916年2月日米関係委員会組織8月東洋製鉄会社発起し10月理化学研究所創立着手した大正6年1917年1月連合国傷病兵罹災者訪問会を設立5月日本郵船会社紛擾調停し8月米国鉄材禁輸解除につき努力し9月早稲田大学維持員となり、10月東京風水害救済会を設立し11月天津水害義助会を設立した。 これに加えて訪米訪中前述を含む国内出張試みたのみならず来日外国要人との接遇務めた渋沢栄一精力的な活動に伴い八十島親徳増田明六はもとより渋沢事務所極めて多忙な日々送った大正8年1919年)秋、神田乃武推薦により、小畑五郎渋沢栄一英文秘書役と日米関係委員会幹事として、渋沢事務所参加この間八十島親徳増田明六は他の会社にも顔を出すようになり、渋沢事務所繁忙拍車かかった大正9年1920年3月18日学生時代から恩人である八十島親徳病没八十島親徳没後増田明六は一層多忙になり、渋沢栄一秘書役よりも渋沢同族株式会社事務時間割かれ取締役選任されてからは更に繁劇となった。喜太郎は、渋沢栄一秘書役となった。同年6月第一銀行福岡支店支配人であった渡辺得男が渋沢同族株式会社転じ7月株主総会取締役選任された。

※この「渋沢栄一の実業界引退」の解説は、「白石喜太郎」の解説の一部です。
「渋沢栄一の実業界引退」を含む「白石喜太郎」の記事については、「白石喜太郎」の概要を参照ください。

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