渋沢栄一の見立養子へとは? わかりやすく解説

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渋沢栄一の見立養子へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:21 UTC 版)

渋沢平九郎」の記事における「渋沢栄一の見立養子へ」の解説

一方京都出奔していた栄一と成一郎は、元治元年2月一橋慶喜家臣となり、慶応2年1866年)、慶喜将軍就任に伴い幕臣となった。翌慶応3年1867年)、栄一将軍名代としてパリ万博出席する慶喜の弟清水昭武随員として、フランスへ渡航することになる。平九郎人生栄一渡欧によって一変する同年正月9日付、栄一が妻・千代宛てた手紙残っている。 「平九郎養子のつもりニいたし置候間、左よふ御承知被成候」 「平九郎江戸引取候積ニ成一郎様えたのミ置候間、右に御承知被成候」 10月栄一見立養子相続人)となり、江戸での生活が始まった。しかしその矢先大政奉還一報江戸届き平九郎すぐさま下手計の惇忠のもとへ行き相談もちかけている。続いて12月王政復古の大号令、翌慶応4年1868年1月鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜追討令と、幕末の動乱当時数え22歳平九郎巻き込まれていった慶応4年正月10日付で、平九郎フランス栄一宛てた手紙から、当時心境窺い知ることができる。 「御国形成孟冬中より追々変ニ相成、(省略正月三日京坂の間ニ而薩長士其外と大戦争有之」 「上様御事御帰朝ニは不被成候哉 乍恐徳川氏御大危急と奉存候栄一フランスへ渡航してから約1年の間で様変わりし日本状況伝え今は徳川氏にとっての危険な事態差し迫っており、早急な徳川昭武帰朝が必要であると述べている。また、この手紙には平九郎抱いていた幕臣の子としての覚悟表している以下の文章がある。 「御国事ニ乍恐周旋も被致候」 「実ニ臣子の身痛心の至ニ候」 国事周旋尽力しするとともに幕臣の子としてこのような状況心痛至りであると述べている。

※この「渋沢栄一の見立養子へ」の解説は、「渋沢平九郎」の解説の一部です。
「渋沢栄一の見立養子へ」を含む「渋沢平九郎」の記事については、「渋沢平九郎」の概要を参照ください。

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