渋沢栄一の見立養子へ
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一方、京都に出奔していた栄一と成一郎は、元治元年2月に一橋慶喜の家臣となり、慶応2年(1866年)、慶喜の将軍就任に伴い幕臣となった。翌慶応3年(1867年)、栄一は将軍の名代としてパリ万博へ出席する慶喜の弟清水昭武の随員として、フランスへ渡航することになる。平九郎の人生は栄一の渡欧によって一変する。 同年正月9日付、栄一が妻・千代に宛てた手紙が残っている。 「平九郎事養子のつもりニいたし置候間、左よふ御承知可被成候」 「平九郎は江戸え引取候積ニ成一郎様えたのミ置候間、右に御承知可被成候」 10月、栄一の見立養子(相続人)となり、江戸での生活が始まった。しかしその矢先、大政奉還の一報が江戸に届き、平九郎はすぐさま下手計村の惇忠のもとへ行き、相談をもちかけている。続いて12月に王政復古の大号令、翌慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦い、徳川慶喜追討令と、幕末の動乱に当時数え22歳の平九郎は巻き込まれていった。 慶応4年正月10日付で、平九郎がフランスの栄一に宛てた手紙から、当時の心境を窺い知ることができる。 「御国の形成昨孟冬中より追々大変ニ相成、(省略)正月三日京坂の間ニ而薩長士其外と大戦争有之」 「上様御事御帰朝ニは不被成候哉 乍恐徳川氏の御大危急と奉存候」 栄一がフランスへ渡航してから約1年の間で様変わりした日本の状況を伝え、今は徳川氏にとっての危険な事態が差し迫っており、早急な徳川昭武の帰朝が必要であると述べている。また、この手紙には平九郎が抱いていた幕臣の子としての覚悟を表している以下の文章がある。 「御国事ニ乍恐周旋も被致候」 「実ニ臣子の身痛心の至ニ候」 国事周旋に尽力しするとともに、幕臣の子としてこのような状況は心痛の至りであると述べている。
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