渋沢栄一が経営に乗り出す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
「大嶺炭田」の記事における「渋沢栄一が経営に乗り出す」の解説
日清戦争後、後述のように戦闘時に海軍艦艇が煙を出す有煙炭を用いることに弊害が多いため、海軍は無煙炭や練炭への関心を高めていた。このような情勢を見て、無煙炭を産出する大嶺炭田は多くの石炭採掘の出願がなされるようになり、1896年(明治29年)頃には数十人が鉱区の権利を取得していた。こうなると投機の絶好の機会として、鉱区を高く転売することをもくろむ者が出てくる。大嶺炭田内の主要鉱区をまとめた上で大資本に売却し、利益を得ようと考えた者たちは、まず佐賀県杵島炭鉱の技師長、吉原政道に相談し、その後様々なつてを頼って買収相談を進めた結果、茨城県磐城炭鉱の唐崎恭三を通じて磐城炭鉱の大株主である渋沢栄一に繋がった。 もちろん渋沢は大嶺炭田の炭鉱経営に乗り出すに当たり、事前調査を行った。工学博士の鈴木敏を現地に派遣し、地質調査、大嶺炭田の無煙炭の炭質の調査などを行わせ、有望との結果を得た。そして渋沢とともに長門無煙炭鉱株式会社の経営を行うことになる浅野総一郎も数回にわたって現地を調査した。結局渋沢、浅野は大嶺炭田での炭鉱経営に乗り出すことを決定した。 会社設立に先立ち、まず炭鉱経営を続けていた荒川鉱区を500円、桃ノ木鉱区を2000円で買収し、1897年(明治30年)5月7日、渋沢を筆頭として浅野、吉原、唐崎ら7名が連名で長門無煙炭鉱株式会社の設立申請を東京府知事を通じて農商務大臣に提出した。会社の設立趣意書は、無煙炭は石灰の焼成、セメント工場、コークスの調合、更には家庭用では薪炭に替わる燃料となるものであるが、日本国内では2、3か所の産地が知られるだけで、生産量もわずかである。しかし美祢郡、豊浦郡に広がる大嶺炭田は、これまでわずかしか利用されていなかったが、調査の結果、炭質が良い上に広い地域に規則正しい数層の採掘に適した炭層が確認された。また炭田から厚狭の海岸、下関まで遠くない。このような諸条件を勘案すると、我が国の無煙炭を産出する炭田の中で最上のものである。すでに鉱区を買収し企業化の機は熟しており、株式会社を設立して炭鉱を経営し、これまで世に知られることのなかった良質の無煙炭を産出し、国益の一助としたいとの内容であった。 長門無煙炭鉱株式会社は、1897年(明治30年)7月2日に正式に設立認可が下り、渋沢栄一が取締役社長となった。会社設立後、大嶺炭田内で試掘を繰り返し、また鉱区全体で測量と地質調査を実施し、その成果は大嶺炭田の基礎資料となった。長門無煙炭鉱で働く鉱員は30名で、新たに開坑した荒川坑から上層の石炭を採掘した。この荒川坑において大嶺炭田で初めて軌条と炭車が使用され、採掘された石炭は炭車で搬出された。1903年(明治36年)の石炭産出量は年間3995トン、石炭の販売価格は1万斤(6トン)当たり10円50銭であったと伝えられている。
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