渋沢敬三が同族会社社長へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 22:57 UTC 版)
「白石喜太郎」の記事における「渋沢敬三が同族会社社長へ」の解説
渋沢栄一の没後は渋沢敬三に仕え、関連会社・団体の役員を務めた。昭和8年(1933年)12月、渋沢栄一の伝記「渋沢栄一翁」が刀江書院から出版された。「和泉清」のペンネームで経済雑誌「経済知識」に「人間渋沢栄一」で連載した記事をまとめた。渋沢敬三が序文、渋沢秀雄が装幀を担当。昭和9年(1934年)7月、喜太郎にとって2冊目の著書「渋沢翁の面影」が四条書房が出版された。 昭和20年(1945年)4月13日、空襲により小石川区駕籠町の自宅が全焼。数日後、渋沢敬三の使いとして、渋沢事務所の杉本行雄が避難先を来訪。「阪田希一邸に避難するように」とのこと。しかし、空襲の度に病を得て衰弱した喜太郎を妻の辰が背負うのは、危険と辰は判断。箱根の別荘へ疎開したい旨を杉本行雄に伝えた。渋沢敬三は杉本行雄に命じて、入手が極めて困難なガソリンを工面し、徳川家の自動車を手配。喜太郎らは箱根に向かった。同年7月28日、病気療養先の神奈川県箱根仙石原にて死去。
※この「渋沢敬三が同族会社社長へ」の解説は、「白石喜太郎」の解説の一部です。
「渋沢敬三が同族会社社長へ」を含む「白石喜太郎」の記事については、「白石喜太郎」の概要を参照ください。
- 渋沢敬三が同族会社社長へのページへのリンク