2冊目の著書
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「ギャヴィン・メンジーズ」の記事における「2冊目の著書」の解説
2008年、メンジーズは2冊目の著作として1434: The Year a Magnificent Chinese Fleet Sailed to Italy and Ignited the Renaissance(1434:中国の大艦隊がイタリアに向かい、ルネサンスに火をつけた年)を刊行した。 この本でメンジーズは、1434年に中国の使節がイタリアに達して書籍や地球儀をもたらし、このことがルネサンスに大きな影響を及ぼしたと主張している。彼の主張によれば、パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリによって1474年に書かれ、コロンブスの私文書の中で見つかった手紙は、中国の外交官とローマ教皇エウゲニウス4世が直接の交渉を持っていたことを示しているという。メンジーズはまた、元代の士大夫王禎(英語版)が1313年に発表した農業書『農書』に付された図像は、ヨーロッパの学者によって写され、イタリア・ルネサンスの博物学者マリアーノ・タッコラ(英語版)(1382-1453)やレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)に帰されている機械装置の図版に直接的なインスピレーションを提供したと主張している。 コロンブスの私文書が中国大使と教皇の往復書簡の証拠であるというメンジーズの主張を検討した歴史学者フェリペ・フェルナンデス=アルメスト(英語版)(米国タフツ大学および英国ロンドン大学クイーン・メアリー校教授)は、この主張を「たわごと (drivel)」と断じており、「信頼できる学者で、トスカネリの手紙が中国の使節に言及しているという説を支持する者はいない」と述べている。オックスフォード大学の美術史の教授であるマーティン・ケンプ (Martin Kemp (art historian)) は、メンジーズが歴史学の方法を応用する際の厳密さや、ヨーロッパの図像は中国の『農書』による模写という見方に疑問を呈しており、“メンジーズは、二つの図がよく似ている時に「これはコピーである」といい、そうでない時にも「ほとんど一致する」と書く”(大意)と述べている タッコラのスケッチが中国の情報に基づいているとのメンジーズの説について Captain P.J. Rivers は、メンジーズが本の別の場所でタッコラが(鄭和の艦隊はまだ中国にいるはずの)1431年にスケッチをはじめたと書いていることと矛盾を起こしていると指摘している。イタリアの技術者は1433年(中国艦隊が到着したとメンジーズが主張する年の一年前)に描き終わったことになる。シンガポール国立大学アジア研究所(Asia Research Institute)上席研究員の Geoff Wade は, ヨーロッパと中国の間で技術的な知識の交換がなされたことは確かであるが、メンジーズの本は結局のところ歴史小説 (Historical fiction) に類するものであり、1434年にイタリアに向けての冒険航海があったということを証明する中国側史料がまったくないと断じている。 Albrecht Heeffer は、ドイツの天文学者・数学者レギオモンタヌス(1436年 – 1476年)が、1247年に著された中国の数学書『数書九章』に記された中国の剰余定理を利用して問題を解決したとするメンジーズの説を検討した。Heffer は、レギオモンタヌスが用いた手法は『数書九章』によるものではなく、それよりも古い『孫子算経』の方法であること、そしてそれは『数書九章』よりも遡るレオナルド・フィボナッチ(1170年頃 - 1250年頃)による解決方法と同様であるということを明らかにした。いずれにせよ、レギオモンタヌスは、伝統的なアバカス(そろばん)の技法から剰余の表についての訓練を行ったと結論付けている
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