渋沢栄一の晩年
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大正15年(1926年)4月、渋沢栄一の娘婿である枢密院議長穂積陳重男爵が生涯を閉じた。阪谷芳郎男爵が渋沢栄一近親の年長者となり、数多い渋沢栄一の事業と健康をいかに調和させるか配慮することになった。「常時病気であるつもりで、具体的には37~8度の発熱ある心得で」のモットーに基づき、秘書役の喜太郎は、渋沢栄一の日々のプログラムを編成することになった。昭和4年(1929年)夏、喜太郎が渋沢事務所に入ってから十数年間机を並べた増田明六が病没した。 同年晩秋、経済知識社社長の後藤登喜男から渋沢栄一の自叙伝編述について相談された。かねて喜太郎が書きかけていた草稿のことを漏らしたところ、経済雑誌「経済知識」に「人間渋沢栄一」と題した連載を行うことになった。しかし、渋沢栄一の余りに側近く仕える者が筆者として名を著すことを勘案し、「和泉清」のペンネームにすることになった。昭和5年(1930年)1月号から連載が開始された。後藤登喜男から同誌を贈られた渋沢栄一も読んだ。号を重ね、叙述が進むにつれ、渋沢栄一は次第に興味を覚え、思いのほかに事実を詳しく知っている筆者が何者か確かめようとした。まず喜太郎に質問したが、匿名にした趣旨に従い、明瞭な回答は避けた。その後、渋沢栄一は、各種方面から調べたようだが、ついには明石照男に調べさせた。後藤登喜男は明石照男に問い詰められ、ついに事情を明かすことになった。明石照男の報告により、一層興味を深めた渋沢栄一は、校閲のため初めから読み返し、記述の不備などを喜太郎に指摘した。この時は、昭和になってから渋沢事務所に入った佐治祐吉に記事を読み上げさせた。 昭和5年(1930年)秋、江口定條を勅選議員にするため、渋沢栄一は濱口雄幸首相を訪問した。また、書状を喜太郎に届けさせた。首相は多忙なため、秘書官であり、海南学校同窓の中島弥団次に託した。昭和6年(1931年)1月、渋沢栄一は、第一銀行の定時株主総会に出席。佐々木勇之助が頭取を辞し、石井健吾が頭取に就任する記念すべき会であった。同年10月に入り、渋沢栄一は体調を崩し、14日に手術を受けた。手術時から渡辺得男と喜太郎は交替で宿直を務めた。11月11日、渋沢栄一は没した。
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