渋沢事務所へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 22:57 UTC 版)
大正3年(1914年)2月、八十島親徳の自宅に呼ばれ、渋沢事務所への転勤を勧められる。「渋沢同族株式会社の設立準備のため、増田明六に加えて、もう1名を欲しい。東京高商の在学当時から、人となりを知っている」のが理由。「事前に第一銀行の同僚明石照男に相談したところ賛成とのこと。渋沢栄一の同意を得たので、第一銀行総支配人佐々木勇之助、石井健吾の了解を得た」と説明があった。「渋沢事務所へ転勤を命ず」という辞令を受け、3月20日、兜町の渋沢事務所の書斎にて、渋沢栄一と面会。 大正3年(1914年)3月25日、渋沢事務所へ初出勤、八十島親徳から、数日前に事務所へ入った渋沢武之助、事務所の従業員である増田明六、上田彦次郎、鈴木勝、中野時之を紹介される。当初の担当は、信書の受付。受け付けた信書を親展書以外は開封し、用件を摘記し、秘書役の増田明六へ提出することであった。八十島親徳が諸種の記述にあたり、文案作成も用務のひとつであった。法学の大家穂積陳重に師事した八十島親徳の教えを請い、得るところがあった。我が国最初の対外通信社である国際通信社の規約作成に従事。同社は渋沢栄一らがジョン・ラッセル・ケネディ の意見を受け入れ、設立。八十島親徳が理事のため、喜太郎も用務を務めることになった。 大正4年(1915年)4月、渋沢同族株式会社が設立。社長に渋沢敬三、専務に八十島親徳、取締役に明石照男、監査役に阪谷芳郎が就任。増田明六は主事、喜太郎は上田彦次郎、鈴木勝と共に書記に任用された。4月1日の辞令により、渋沢事務所員と渋沢同族株式会社社員となった。1年余り同室に机を並べた渋沢武之助が株式会社東京石川島造船所に勤務することになったため、渋沢武之助が担当していた十勝開墾合資会社の事務を引き継ぐことになった。同社の社長は、植村澄三郎、八十島親徳が業務担当社員であった。同年12月、渋沢栄一の関西・九州出張に随行し、「青淵先生西南紀行」を記す。
※この「渋沢事務所へ」の解説は、「白石喜太郎」の解説の一部です。
「渋沢事務所へ」を含む「白石喜太郎」の記事については、「白石喜太郎」の概要を参照ください。
- 渋沢事務所へのページへのリンク