清色城跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 清色城跡の意味・解説 

清色城跡

名称: 清色城跡
ふりがな きよしきじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 鹿児島県
市区町村 薩摩川内市入来町
管理団体
指定年月日 2004.09.30(平成16.09.30)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成21.07.23
解説文: 清色城跡は、入来町北西部樋脇町との町境の山塊立地する中世山城跡であり、清色左岸標高100m最高地点とする西から東に延びシラス台地北東突き出た部分築かれている。城の東側展開する麓集落は、中世から近世に至る入来院氏家臣団屋敷地域であり、当時景観をよく残しており、入来地区重要伝統的建造物群保存地区選定されている。
城跡は、『三国名勝図会』には12世紀末に入来院頼宗が築城したとあり、また『雑記伝』には宝治元年(1247)に地頭となった渋谷定心築城したとあるが定かでない相模国渋谷庄司であった渋谷光重が宝治合戦恩賞として薩摩郡入来院高城東郷祁答院鶴田得て定心等5人の子供に地頭職分割相続し、5人はそれぞれの土地定着し、その地名取って名字とした。入来院氏は、南北朝期になると北朝島津方になったり、南朝方になったり離反繰り返している。清色城は、このころ築城されたのではないかとされている。南北朝期以降は、薩摩国内で島津氏同族内との抗争続き渋谷一族のうち高城鶴田両氏はまもなく没落し入来院氏当城本拠永利隈之城勢力拡大した入来院氏は、戦国期においても薩摩の国衆として際立つ存在であったが、島津氏戦国大名となる中で永禄12年(1569)入来院重嗣は全所領差し出して島津氏家臣となった家臣となって当城安堵され、入来院地域所領として勢力維持したのである慶長18年(1613)以降入来院氏鹿児島居住し入来では領地支配のための仮屋を置き、当城廃城となった
入来院氏については、中世からの相伝文書残されており、エール大学朝河貫一大正8年1919調査し昭和4年(1929)に発表して以来我が国中世武家社会政治経済史等多方面研究供されていることでも著名である。
城跡周囲は、麓集落囲み南、東、北側清色川が流れ西側清色川に注ぐ小川流れ城域としている。なお、南西部台地続いていたので空堀作り防備した。山城跡の部分は、南北約600m、東西約750mの規模測る
遺構としては、南西方向から北東方向延び尾根筋先端頂上曲輪設けている。主要な尾根南西を限る空堀から東北東向いており、この尾根から北方向に4本の尾根出ている。この尾根地形生かして16曲輪群を形成している。一番広い曲輪は、約5,000m2を測る曲輪名称としては、『三国名勝図会』に本丸松尾城西之城、中之城、求聞持城、物見之段が見え最大曲輪本丸考えられその他の曲輪現地比定されている。また、土塁を伴う曲輪見られ櫓台をもつものもある。虎口半数近く曲輪確認される当城遺構特徴は、シラス台地特徴をよく生かし本丸呼ばれる曲輪中核据え、その周囲三重曲輪配置しその間切り立った空堀区切った繋いだりしている縄張りをもつものである
このように中世薩摩地方在地豪族として活躍した入来院氏居城が、良好に残っていることは、我が国中世歴史考え上で重要であり、史跡として保護しようとするものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  清水山城跡  清水山城館跡  清滝寺京極家墓所  清色城跡  渋野丸山古墳  湯島聖堂  湯築城跡



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「清色城跡」の関連用語

清色城跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



清色城跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS