洲本城跡とは? わかりやすく解説

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洲本城跡

名称: 洲本城跡
ふりがな すもとじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 兵庫県
市区町村 洲本市小路谷
管理団体
指定年月日 1999.01.14(平成11.01.14)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 洲本城跡は,淡路島南東洲本市街地の南側にそびえる標高約130mの三熊山に所在する戦国時代から江戸時代にかけて淡路国統治中心となった山城跡である。東西800m範囲に総石垣曲輪展開する大手門南側開き北奥の最高所天守配して紀淡海峡見下ろし遥か彼方大阪・堺の市街地遠望する
 天守南下本丸続いて南東側に南の丸,東の丸用水池武者溜まりを,西側には籾倉,西の丸配し北側急斜面には2本の登り石垣北側斜面を守る小規模な郭群,10数本大規模な竪堀設けている。各郭の石垣は、ほんとんどは野面積みであるが,隅石垣などの一部には打ち込みはぎの算木積み技法用いられている。石材三熊山産の和泉層群砂岩及び礫岩である。
 洲本城は,戦国時代前期紀伊水軍勢力安宅氏によって築城されたと伝えられており,江戸時代地誌淡路」(「淡路常磐草」「淡路」「堅磐」「味地草」)は永正7年(1510)の安宅河内守大永6年(1526)の安宅隠岐守治興による築城両説載せている。天正10年(1582)には,織田大名菅平氏・仙石氏短期間この城に拠ったが,同12年から慶長14年(1609)までの24年間は,豊臣大名脇坂安治が在城して紀淡海峡大阪湾守備した脇坂氏伊予国大洲移封された後には藤堂高虎池田輝政忠雄淡路領したが,この時期
城史はあまり明瞭ではない。元和元年(1615)、大坂夏の陣豊臣秀頼滅亡すると,淡路一国阿波徳島藩蜂須賀氏加増された。寛永8年(1631)から12年までの一時期淡路支配拠点由良城(洲本市)に移されたが,12年には「由良引け」によって再び洲本城政治拠点戻り以後明治維新まで黒木城淡路統治機能担い続けた本丸跡及び東の丸跡を中心に織豊期の瓦や碑が出土しており,中には脇坂氏家紋である「輪違い紋」瓦や朝鮮系め滴水瓦なども含まれている。
方形プラン本丸,平虎口,内柵形,折れ多用した石垣用水池などの現存する城郭施設は,脇坂段階のものを寛永以降一部改修したものと考えられるが,各遺構長い歴史過程反映して築造改修時期複雑に入り交じっている。遺構詳細な分類変遷解明今後今後の研究課題であるが,竪堀群は安宅氏戦国期段階倭城との関係が想定される登り石垣(竪石垣)は文禄慶長期の所産推定されている。
 洲本城跡は,戦国時代から幕末まで淡路一国統治拠点となった城郭で,海に臨む水軍拠点城郭としても貴重な遺跡である。遺構遺存状況極めて良好であり,戦国期文禄慶長期,寛永期などの各時期築城技術が層.を成すよう累積されている。よって史跡指定し保存と活用図ろうとするものである
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