津軽氏城跡とは? わかりやすく解説

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津軽氏城跡
種里城跡
堀越城跡
弘前城跡

名称: 津軽氏城跡
 種里城跡
 堀越城跡
 弘前城跡
ふりがな つがるししろあと
 たねさとじょうあと ほりこしじょうあと ひろさきじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 青森県
市区町村 弘前市下白銀町西茂森町新寺町桶屋町・堂屋町・亀甲町堀越西津軽郡鰺ヶ沢町
管理団体 弘前市(昭521210)
指定年月日 1952.03.29(昭和27.03.29)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成14.12.19
解説文: 津軽氏居城慶長十五二月着工、翌十六五月略々成り津軽信牧堀越城からここに移った爾後歴代ここにおり明治維新至った
北方に向って挺出した台地西北端に主要部営み北及西麓低地をとり入れ、南を大手とし、北を搦手とする。城の略々中央部、西に偏して下に蓮池を望む急崖を利して南北長い本丸を置き、これを東から南にかけて大きく包んで、二之郭、三之郭を低く重ね廻らし、本丸の北の虎口守って内北之郭(北之郭)を、南の虎口遮蔽して武者屯(馬出とも)を配する。また北麓低地には広く北之郭(四之郭・下之郭とも)を、西麓蓮池の西には西之郭を置いている。而して惣構として、城の南々西方に当り台地を横切て土塁、堀を設け、その外側長勝寺構等の寺院地を配し、またこの東に接し、城の南方部には、幅広き谷状地の出口堰堤築いて溜池を造つている
本丸石垣を以て固められ、各郭は土塁を廻らし、この間を堀が縫っていて、縄張り要を得間々改変のあとはあるが、天守、門、を始め遺構がよく遺存していて旧観伝えるに十分であり、惣構も亦概ねよく旧態とどめていて、近世における城郭規模を示すものとして価値ある遺跡である。
津軽氏居城慶長15年2月着工、翌16年5月略々成り津軽信牧堀越城からここに移った爾後歴代ここにおり明治維新至った
北方に向って挺出した台地西北端に主要部営み北及西麓低地をとり入れ、南を大手とし、北を搦手とする。城の略々中央部、西に偏して下に蓮池を望む急崖を利して南北長い本丸を置き、これを東から南にかけて大きく包んで、二之郭、三之郭を低く重ね廻らし、本丸の北の虎口守って内北之郭(北之郭)を南の虎口遮蔽して武者屯(馬出とも)を配する。また北麓低地には広く北之郭(四之郭、下之郭とも)を、西麓蓮池の西には西之郭を置いている。而して惣構として、城の南々西方に当り台地横切って土塁、堀を設け、その外側長勝寺構等の寺院地を配し、またこの東に接し、城の南方部には、幅広き谷状地の出口堰堤築いて溜池を造つている。
本丸石垣を以て固められ、各郭は土塁を廻らし、この間を堀が縫っていて、縄張り要を得間々改変のあとはあるが、天守、門を始め遺構がよく遺存していて旧観伝えるに十分であり、惣構も亦概ねよく旧態とどめていて、近世における城郭規模を示すものとして価値ある遺跡である。
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種里城

(津軽氏城跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/01 18:05 UTC 版)

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種里城
青森県
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 大浦氏
築城年 1491年延徳3年)
主な城主 大浦光信
遺構 曲輪
指定文化財 国の史跡(「津軽氏城跡」の一部として)
再建造物 なし
位置 北緯40度42分16秒 東経140度9分58秒 / 北緯40.70444度 東経140.16611度 / 40.70444; 140.16611座標: 北緯40度42分16秒 東経140度9分58秒 / 北緯40.70444度 東経140.16611度 / 40.70444; 140.16611
地図
種里城
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種里城(たねさとじょう)は、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町種里町にあった日本の城山城)。国の史跡に指定されている(史跡「津軽氏城跡」のうち)[1][2]

概要

種里城は、津軽氏発祥の地として知られている[3]。城は、赤石川の上流、種里集落の西南約500メートルに位置し、前面は赤石川、背後は大柳沢山嶺をひかえた、東向きの山城である。本丸跡の西南に光信公御霊墓があり、御廟館とも言われている。また、近くに殉死した奈良主水貞親の墓がある[4]

2002年(平成14年)に弘前城跡や堀越城跡とともに「津軽氏城跡」として国史跡に指定された[5]。また周辺は津軽白神県立自然公園に飛地で指定されている[6]

歴史

1491年(延徳3年)、大浦光信によって築城された。1502年(文亀2年)、光信は大浦城を築き、子の大浦盛信を置いた。光信死後は大浦城が大浦氏の本拠となり、種里城は支城として江戸時代初めまで使われた[2]。その後種里城は津軽氏の聖地として保存されたが、明治時代に入って遺構は破壊された[7]

1988年、跡地に資料館「光信公の館」が建設されることに伴い発掘調査が行われ、その後種里城跡の解明を目的とした学術調査が、1991年から1997年まで続けられた[8]

画像

出典

  1. ^ 津軽氏城跡」『弘前市公式サイト』、弘前市http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/bunkazai/kuni/kuni29.html2018年11月11日閲覧 
  2. ^ a b 種里城跡とは」『津軽藩発祥の地 国史跡 種里城跡』、鰺ヶ沢町・鰺ヶ沢町教育委員会http://www.town.ajigasawa.lg.jp/tanesato/01.html2017年2月8日閲覧 
  3. ^ 鰺ヶ沢[町]」『世界大百科事典』、日立ソリューションズ・クリエイトhttps://kotobank.jp/word/%E7%A8%AE%E9%87%8C%E5%9F%8E-1801062017年2月8日閲覧 
  4. ^ 周辺の史跡」『津軽藩発祥の地 国史跡 種里城跡』、鰺ヶ沢町・鰺ヶ沢町教育委員会http://www.town.ajigasawa.lg.jp/tanesato/04.html2017年2月8日閲覧 
  5. ^ 城跡”. 青森県. 2024年12月1日閲覧。
  6. ^ 津軽白神県立自然公園”. 青森県. 2024年12月1日閲覧。
  7. ^ たねさとじょう【種里城】」『日本の城がわかる事典』、講談社https://kotobank.jp/word/%E7%A8%AE%E9%87%8C%E5%9F%8E-1801062017年2月8日閲覧 
  8. ^ 発掘調査」『津軽藩発祥の地 国史跡 種里城跡』、鰺ヶ沢町・鰺ヶ沢町教育委員会http://www.town.ajigasawa.lg.jp/tanesato/02.html2017年2月8日閲覧 

関連文献

  • 中田書矢「種里城 (特集 城郭の研究)」『月刊考古学ジャーナル』第493号、ニュー・サイエンス社、15-18頁、2002年10月。ISSN 04541634NAID 40005425978 
  • 佐々木浩一「青森県中・近世遺跡の景観―小沢館・境関館・浜通遺跡・十三湊遺跡・種里城」『青森県史研究』第5号、青森県、2000年11月。 ISSN 13427431NAID 40005164794 

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