津軽模宏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 津軽模宏の意味・解説 

津軽模宏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/29 14:57 UTC 版)

Jump to navigation Jump to search
 
津軽 模宏
時代 江戸時代
生誕 宝暦7年(1757年
死没 天保2年1月4日1831年2月16日
別名 頼母、金蔵、東山
弘前藩
氏族 津軽氏
父母 父:寧都、養父:津軽範盛
兄弟 尚徳模宏

津軽 模宏(つがる のりひろ)は、江戸時代中期から後期の陸奥弘前藩の武士。別名、津軽頼母。

生涯

津軽寧都の六男として生まれる。津軽範盛の養子となり、天明6年(1786年)に500石の家督を継いだ。寛政4年(1782年)に表書院番頭用人となり、同9年(1797年)に100石、翌10年(1798年)にも200石の加増を受け、家老となった。寛政11年(1799年)には、藩校稽古館の2代目総司となった。文化元年(1804年)、若年寄堀田正敦より青森を20年間幕府で借り上げたいと申し出が来ると、津軽家の判断だけでなく近衛家の沙汰がなくてはいけないといい、借り上げを防いだ。文化4年(1807年)5月21日、ロシア船が択捉島陣屋に来襲し、狼藉を働いたとき、藩主・津軽寧親不在のため、総登城で会議を開き、一人で意見を取りまとめた。その結果、25日には大正竹内源太夫以下、500人の松前派遣を決定した。文政4年(1821年)の相馬大作事件岩木山麓の鬼沢民次郎一揆なども模宏が対処した。また、書道に優れ、囲碁の名手でまた名家老であった。その結果、「津軽十万石に過ぎたる名家老、天下の三大家老」とも言われた。

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「津軽模宏」の関連用語

1
32% |||||

津軽模宏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



津軽模宏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの津軽模宏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS