法的哲学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 02:19 UTC 版)
「ウィリアム・J・ブレナン・ジュニア」の記事における「法的哲学」の解説
ブレナンは、権利章典を強く信奉しており、そのキャリア初期の段階から、連邦政府のみならず各州に対してもこれを適用すべきであると主張している。また、多くの事件で州に対する個人の権利を認める立場をとり、刑事被告人、マイノリティ、貧困者その他の立場の弱い集団に有利な判断を下しており、「公民権の守護者」とも呼ばれた。さらに、ブレナンは総じてヒューゴ・ブラック判事及びウィリアム・O・ダグラス(英語版)判事が取っていた絶対主義的な立場とは距離を置いており、妥協に対して非常に柔軟であった。ブレナンは、法廷において裁判官の多数派を勝ち取るためであれば、妥協することに一切躊躇がなかった。その保守派の敵対者らは、ブレナンを司法積極主義のパシリであると責め、法的根拠の検討からではなく結論から先に導いていると非難した。引退に際し、自身にとっての最重要事件としてブレナンが挙げたのは、ゴールドバーグ対ケリー事件(英語版)である。同事件は、福祉給付金の支給について、地方、州及び連邦政府は受給者に対する証拠調べとしての事前の聴聞の手続を経ずして、その支給を打ち切ることは許されないと判示したものである。 1980年代、レーガン政権とレンキスト・コートの下でウォーレン・コートにおける判断からの「逆行」のおそれが高まるにつれ、ブレナンはその法哲学的見解をより積極的に発信するようになった。1985年のジョージタウン大学におけるスピーチでは、「原意(英語版)(original intent)の法原理」に基づく解釈を裁判所に要求した司法長官エドウィン・ミース(英語版)について、起草者の意思を正確に推し量ることなどは不可能として、「謙譲の皮を被った傲り」であると批判した。そして、「人間の尊厳」としての権利を保障することがアメリカ合衆国憲法の解釈であると説いた。 また、ブレナンは、死刑制度に関する限り、先例拘束性をさほど重視せず、「絶対主義」的立場を回避しようともしなかった。ファーマン対ジョージア州事件(英語版)において、ブレナンとその最も近しい同志であったサーグッド・マーシャルは、諸般の事情に照らして死刑は違憲であると結論付け、その4年後に死刑を合憲と判示したグレッグ対ジョージア州事件(英語版)においてもその正当性を決して肯定しなかった。それ以降、死刑が争われたものの裁量によって上告が受理されなかったすべての事件において、ブレナンとマーシャルは代わるがわる反対意見を執筆し、交互にそれに同調した。そして、受理したが死刑判決を違憲無効としなかったあらゆる事件について、反対に回った。 ブレナンは裁量による上告受理を認めなかったグラス対ルイジアナ州事件(英語版)の反対意見の中で、次のように書いている。グラス事件では、刑の執行方法としての電気椅子使用の合憲性が争われたが、最高裁としては口頭弁論を開かない判断をした。 証拠によれば、感電による死は、極度に暴力的であり、「単なる生命の消滅」という程度をはるかに超えた痛みと恥辱を伴うものであることが推認できる。立会人が日常的に報告するところによると、スイッチを入れたときに、死刑囚の身体は「収縮し」、「跳ね上がり」、「驚くべき力でひもと格闘する」。「その手は赤くなり、それから白く変色して、頸部の筋が鋼鉄の帯のように浮き出る」。「受刑者の四肢、指、足先及び顔は顕著にねじ曲がる」。「強力な電流により、受刑者の眼球が飛び出て頬に垂れ下がることもある」。「受刑者は、しばしば排便、排尿し、血液と涎を吐く」 ブレナンは、電気椅子による死刑は、「現代のテクノロジーを用いた火あぶりにほかならない」と述べて、その結論を導いている。
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