法務大臣による死刑執行命令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:55 UTC 版)
「日本における死刑」の記事における「法務大臣による死刑執行命令」の解説
法務大臣によっては、死刑執行に対する思想の相違によって、対応が異なってくる。苦悶しながら署名する法務大臣も少なくなく、例えば犬養健は死刑執行命令書への署名を嫌い、できるだけ回避したうえどうしても決裁しなければならなくなっても、即決せず3、4日は待たせたという。一方で、積極的な法務大臣も多く、犬飼の後任の加藤鐐五郎と小原直は半年弱の間に死刑執行命令書の決裁を積極的に行ったため、1954年当時未執行だった1948年と1949年ごろの死刑確定囚32人の死刑が執行された。また、田中伊三次は記者の前で一度に23名の死刑執行命令書に署名し記事化することを要求している。中垣國男は在任中33名の死刑執行命令を出したが、死刑囚個人に支援団体が組織されていた藤本事件や小松川事件の死刑囚を早急に処刑したほか、反対派に阻止されたが平沢貞通の処刑準備をした。 宮澤内閣で法務大臣を務めた田原隆のように「国民の多数が死刑を支持している」と述べ、自身は死刑執行命令を下すこともあり得るという考えを示したにもかかわらず、1年の在任期間の間に死刑執行しなかった(本人は法務官僚から死刑執行命令書の署名を求められなかったと弁明)大臣もいる。内閣総理大臣であった吉田茂も第2次吉田内閣発足時に1ヶ月法務総裁(後の法務大臣)を兼務していたが、1947年10月に官房長が死刑執行命令書に決裁を求めたところ、チラッと目を通しただけで「これは専任大臣ができてからにしてくれ」と署名を拒否している。 また自己の信念で、死刑執行を拒否した法務大臣もいる。たとえば戦後の1964年と1968年および1990年から1992年までは死刑執行が行われなかった。そのうち1964年は、賀屋興宣(在任1963年7月 - 1964年7月)が元A級戦犯であり、収容されていた巣鴨プリズンにおいて元首相の東條英機らA級戦犯7名が絞首刑に処されるのを見送ったうえに、最期の叫びも聞いたため心情的にできなかった。後者の1968年は、赤間文三が「勘弁してくれ。今度、俺にお迎えがきたらどうする」などと発言して署名を拒否した。 詳細は「A級戦犯#極東国際軍事裁判に起訴された被告人」および「賀屋興宣#エピソード」を参照 1990年代初期のモラトリアム(死刑執行一時停止)は、長谷川信から梶山静六、左藤恵、田原隆と、歴代の法務大臣に引き継がれていた。長谷川は病気で倒れるなど(辞任直後に死去)の事務方の混乱や、1991年に明仁の即位の礼が執り行われる(大正天皇と昭和天皇の大礼の際には、死刑囚の大量恩赦が行われたが、行われなかった)事情もあったが、特に自分が浄土真宗の住職であるという信仰上の信念から、死刑執行命令書に署名しなかった左藤恵(在任1990年12月-1991年11月)の例がある。 しかし1993年3月26日に3人の死刑が執行され、このモラトリアムは終わった。後藤田正晴(警察官僚出身)が「法秩序、国家の基本がゆらぐ」(国会答弁)として再開させた。これは死刑執行が途絶えることで、事実上死刑制度が廃止になることを危惧した、法務官僚の意向があったともいわれている。 弁護士出身で真宗大谷派の信徒である杉浦正健(在任2005年10月-2006年9月)が、就任直後の記者会見で「私の心や宗教観や哲学の問題として、死刑執行書にはサインしない」と発言したものの、1時間後には記者会見を開いて撤回した。結局、杉浦は死刑執行することなく任期を終えたが、「職務を執行しないのであれば、法務大臣を受けるべきでない」との強い批判があり、以後の法務大臣任命に影響を与えた。 杉浦の後任である長勢甚遠は、2006年12月25日に4人の執行書にサインした。「執行を1年でも途絶えさせてはならない」という法務省の強い意向が、異例の年末の執行になったとされる。
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