民生産業まで
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1935年(昭和10年)- ディーゼルエンジン製造を目的として埼玉県川口市に日本デイゼル工業を創立1926年(大正15 / 昭和元年)にトラックに搭載され実用化されたドイツのクルップ / ユンカース特許の上下対向ピストン式2サイクルディーゼルエンジンは、自動車用ディーゼルエンジンとしては世界で初めて実用化され、量産された直接噴射式エンジンである。 陸軍中佐(後に初代社長)であった足立竪造は、この新形式の車載可能なディーゼルエンジンに将来性を見出し、資金を集めて日本での特許権を購入、三菱名古屋製作所長の支援を受けて国産化に着手した。 1936年(昭和11年)- 上下対向ピストン式2サイクルディーゼルエンジンの生産を開始。社名を採ってND型と名づけられた。 1937年(昭和12年)- サンプルとしてドイツのクルップからディーゼルバスを取り寄せる。 1938年(昭和13年)- ND1型直列2気筒60ps発売。日本初の無気直噴エンジンとなる。 1939年(昭和14年)- ND1型60ps搭載のトラック1号車LD3型(3.5 t積・後にTT6型に型式名称変更)完成。しかし完成までの道程は予想以上に厳しく、経営は難航した。LD3型トラック完成の翌月に初代社長であった足立は辞任。陸軍から砲弾の加工、中島飛行機から星型エンジンのコンロッドの生産等を請け負い窮状をしのぐ。 1940年(昭和15年)- 戦時色が強まる中、新興財閥として伸長しつつ重工業へのシフトを模索していた鐘淵紡績(のちのカネボウ)は、日本ディゼルに着目して出資、経営権を獲得。直列3気筒4,100 cc 90 psのND2型を搭載したTT9型8 t積トラック、直列4気筒5,400 cc 125 psのND3型とバリエーションを増やし、生産を拡大していく。 1942年(昭和17年)- 親会社の鐘淵工業への社名変更に合わせて鐘淵デイゼル工業 と社名変更。エンジン名もKD型となる。大出力の直4・KD5型165 psエンジンも造られるに至ったが、この頃生産自体が国の統制に置かれたトラック用ディーゼルエンジンは、4ストローク予燃焼室式のいすゞ(ヂーゼル自動車工業)系エンジンに集約されたため、鐘淵ディゼルではそれ以外で大出力を活かせるニッチ市場への供給を図らざるを得なくなった。自社でブルドーザーを製造してそれに搭載したほか、船舶用としても供給された。 1945年(昭和20年)- 終戦後、残材で鍋釜造りを行って工場稼働を続ける。戦前のTT9型トラックも細々と再生産の準備を始める。 1946年(昭和21年)- 社名変更。鐘淵工業は戦後大幅に整理縮小され、元の鐘淵紡績に戻り、鐘淵デイゼル工業も分離して民生産業 へと社名を変更する。エンジン単体を産業機械用に生産開始、得意のブルドーザーも生産を再開したがGHQから制止を受け、トラック・バスの生産に注力せざるを得なかった。 1949年(昭和24年)- 旧中島飛行機の富士産業が機体製造技術を駆使してモノコックボディのふじ号バスを開発、技術的成功を収める。搭載されたエンジンは直列2気筒の民生KD2型エンジンであった。この頃日産自動車が民生に対し、トラック用ディーゼルエンジンの供給を打診。当時の日産(車名はニッサン)の標準ガソリントラックであった180型系のシャシにKD2型を搭載し、ディーゼルトラックM180型として発売された。当時の日産大型トラックは、ガソリンエンジンは自社製のNT型、ディーゼルエンジンは三菱重工(東日本重工→三菱自動車→現・三菱ふそうトラック・バス)製を搭載していた。やがてそれは日産から大型トラックシャシを半製状態で供給、民生で組み立て、完成車とする方向へ発展する。
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