歴史的用法
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「常に既に」に当るドイツ語immer schonやje schon(「その都度すでに」)は、哲学に限らず「前からずっと」「いつももう」「そのたびにこれまで」と言う程の意味で普通に使用される。早くはイマヌエル・カントの『純粋理性批判』中「純粋理性の誤謬推理について」(A346/B404)にもjederzeit schonという表現が見られ、「如何なる場合にも既に」(天野貞祐訳)とか「もともとつねに」(高峯一愚訳)等と翻訳されてきたが、これに「つねにすでに」という日本語を当てた例もある。 「つねにすでに」という表現はカール・マルクスが資本の性質を説明する際に用いられており[要出典]、その後ハイデッガーの影響によって広められた。『存在と時間』(序論第一章第二節=原著S. 5、等)での「つねにすでに」(細谷貞雄訳では「いつもすでに」か「いつでもすでに」)はカントにおける「アプリオリ」のハイデッガー的な言い換えだが、論理構造より時間性に重心を移した語感が籠められている。ハイデッガーの師であった現象学者エトムント・フッサールも晩年、あらゆる実践のための地盤となる「生活世界」の概念を『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1935~36年執筆)で提起した際は、「つねにすでに immer schon」で「生活世界」を形容したが(第三十三・三十四節・三十七節。細谷恒夫・木田元訳では「いつもすでに」)、この生活世界は「アプリオリ」と結びつけられていた(第三十六節)。 ドイツ語immer schonはフランス語ではtoujours déjàと直訳され、この表現はモーリス・ブランショ(1907–2003年)の著作の多くでも中心的な扱いを受けている。ブランショは、ハイデッガーによるヘルダーリンの詩作における予期の分析を批判し、ステファヌ・マラルメの作品を論じている。ブランショはジャック・デリダにも影響を与えている。ほか、ミシェル・フーコーの『言葉と物』第九章第六節「起源の後退と回帰」は、ハイデッガー『存在と時間』の「つねにすでに」に対する批判的註解としても読める(ヒューバート・L・ドレイファス+ポール・ラビノウ『ミシェル・フーコー 構造主義と解釈学を超えて』筑摩書房、1996年、70~74ページ)。
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歴史的用法
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歴史的な語源におけるカートゥーンとは、油絵のような絵画作品の制作に際し、紙の上に原寸大で描かれる下絵(下書き)の意味である。厚紙を意味するイタリア語「カートン」“cartone” あるいはオランダ語の「カルトン」“karton”に由来する。日本語では通常この意味でカートゥーンを用いず、フランス語読みでカルトンと称する。 カルトンは幾日にもわたる漆喰の上への彩色に際して、構成部分を正確に連結させるために、専らフレスコ画の制作に使用されていた。ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチのような画家によるカルトンは、それ自体が高い価値を持っている。 ラファエロのカルトン 『ペテロに天国の鍵を授けるキリスト』のカルトン カルトンをもとに作られた『ペテロに天国の鍵を授けるキリスト』のタペストリー ラファエロがタペストリー作成用に作成した下絵
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