「ファッラーヒーン」のエジプトにおける歴史的用法
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エジプトではファッラーヒーン(ファッラーフーン)という用語は地主・自作農・小作農などを内包し、広く農業一般に関わる人々を指す用語となった。しばしば「耕作農民(ムザーリウーン、muzāri'ūn)」と同義語としても用いられ、この場合は小規模自作農もしくは小作農を指す用語である。7世紀にアラブ人がエジプトに侵入した当時、初期イスラム王朝においては、支配者であるアラブ人を頂点とし、イスラムに改宗したエジプト人をマワーリーとしてアラブ人の下に置き、キリスト教(コプト正教会)にとどまったエジプト人をズィンミーとしてさらに下に置いた。この初期イスラーム時代のエジプトの農村社会を構成するエジプト人の主要な階層がファッラーヒーン(ファッラーフーン)であった。マムルーク朝時代の歴史家マクリーズィーは初期イスラーム期エジプトの農民を(イクター制の下、ムクターの拘束を受けるアイユーブ朝以降の農奴に対して)身分的な拘束を受けない「定着農民(ファッラーフ・カッラール、fallāḥ qarrār)」と規定している。 当時少数派のアラブ人が享受した特権は、ベドウィンの末裔であるアラブ系住民がエジプト土着の農民と共存するエジプトの地方部では、近代に入ってもその一部が残っている。特にエジプトの中でも経済的・社会的に立ち遅れ、近代エジプト国家やその中心である下エジプトとの関係の中で強固なアイデンティティを持つにいたった上エジプトではその傾向が顕著に表れている。上エジプトではイスラム教徒は圧倒的多数派ではなく、コプト系キリスト教徒が人口に占める割合が多い。イスラム教徒の中では、「アシュラフ」および「アラブ」と呼ばれる少数派の二つの部族が上層階級となっており、アラブ人によるエジプト征服の時代以来の構造を残している。社会の最上層を占める「アシュラフ」(Ashraf)は預言者ムハンマドの子孫であるとされ、その下に位置する「アラブ」(Arab)はアラビア半島からエジプトに移った人々の子孫とされる。社会の圧倒的多数派であるファッラーヒーンはアラブによる征服以前のエジプト人の末裔でイスラムに改宗した者たちの子孫とされ、最下層を占める。しかしながらコプトでもムスリムでも、特に社会の下層では、その信仰や実践は正統的でない民間信仰の影響を受けており、ここには多神教時代の名残も見られる。 ガマール・アブドゥン=ナーセル政権時代には農地改革や教育改革でファッラーヒーンには土地所有や高等教育への道が開かれたが、その後の社会主義的改革の行き詰まりと資本主義政策の導入で高い教育を受けたファッラーヒーンらは挫折を味わい、不満を抱える青年層がイスラム主義へと傾倒してゆくことになる。
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