歴史的・史料的観点からの指摘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 15:10 UTC 版)
「鶴姫 (大三島)」の記事における「歴史的・史料的観点からの指摘」の解説
三島安精が『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』の執筆にあたって下敷きにしたという『大祝家記』は、三島によれば江戸時代後期の1761年(宝暦11年)正月に大祝安躬が同家相伝の記録や口伝の書をまとめて著した「門外不出」の家記であり、文体は『予陽盛衰記』に似ているとされる。彼が小説執筆時に実際に参照したのは、さらに祖父の安継が1876年(明治10年)頃に原本を書写したものであるというが、大山祇神社は『大祝家記』の所在を確認しておらず、三島が所持・使用していたという安継による写本も、彼の没後は行方が明らかでない。 大山祇神社の大祝職を務めた大祝家(現・三島家)に伝来した『三島家文書』には大三島合戦に関する文書も含まれるが、『大祝家記』と異なり、その中に鶴姫もしくは女性が合戦に加わり、水軍を率いて大内軍と交戦したとする記述はそもそも見当たらない。『三島大祝家譜資料 全 三島家蔵版』(1912年(大正元年)刊)には、1541年6月の合戦では大三島側が勝利したとあるが、鶴姫が大内氏の武将・小原隆言を討ち取ったとされる同年10月の合戦(先述)については記されていない。小原の足跡に関しては、『大内氏実録』巻29に「(天文)十年六月十八日、また伊予へ赴き、七月二六日まで滞在して三島(大三島)、甘崎、岡村、能島、印島(因島)に戦ふ」とある一方、同書には鶴姫に討たれたはずの1541年10月より後の行動についても記されており、小原は大内氏滅亡後に毛利元就に臣従している。 作家の鷹橋忍はこれに加えて、鶴姫が最後に戦った1543年6月の合戦については一次史料が存在しない上、この時期の大内氏は第一次月山富田城の戦いで出雲の尼子氏に敗北し、かつ義隆の養嗣子・晴持が死亡した直後で、安芸・備後の尼子方勢力に対して備える必要があっても伊予にまで戦線を広げる理由がないと指摘している。 さらに、義隆が1544年(天文13年)9月23日付で剣や神馬などを大山祇神社へ奉納した旨の文書が残る。これは大三島が彼の支配下に入ったことの宣言とも解釈され、作家の跡部蛮は、記録は残っていないが大三島側は2度目の合戦で大内氏に敗れており、義隆への配慮から抗戦した鶴姫の存在を秘匿せねばならなかったが、江戸時代になってから私的な史料の『大祝家記』上で、誇張を交えながらも彼女の活躍を伝え残そうとしたのではないか、と推測している。 なお、江戸時代当時の大祝家は、1658年(万治元年)に安躬の高祖父である安長が社家との間に相論を構え、松山藩により大祝職を17年間停止されて以降、社家の一部と対立関係が続いていた。安長の後、大祝職への復帰が許された安朗(安躬の祖父)も、有力社家と摩擦を起こして藩に訴えられた末に藩領内からの追放を命じられ、一時は大祝家が一家ごと大坂に移住し浪人生活を余儀なくされる事態が発生していた。さらに代が下ってなおも、安躬自身が社家側との間に争いや訴訟を抱えていた。鷹橋は、『大祝家記』が執筆された動機として訴訟を大祝家の方へ有利に導こうとする意図があったのではないかとみて、藩や社家に対して正当性を訴えたい大祝側が、自らを仮託して鶴姫という悲劇の生涯を歩んだ人物を生み出したのではないかと推察している。 その他、「鶴姫伝説」は神功皇后の三韓征伐伝説をもとにして作られたのではないかとする指摘もある。
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