歴史上の海賊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 15:54 UTC 版)
例えば、パクス・ロマーナは、ローマ帝国海軍が地中海の覇権を掌握したとき成立し、それを維持できない段階で消滅した。日本においても、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、海賊の取り締まりを重視し、これによって中世から近世への扉が開かれた。ヨーロッパでは、イーリアスやオデュッセイアなど古代伝説にも登場し、アリストテレスの『政治学』には、海賊は猟師などと同様に職業の一つとして数えられていた。 8世紀には北欧のノルマン人ヴァイキングの活動があった。中世においてはヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国といった通商国家の商船が、自国の商圏を防衛するために武装化して、競争相手の船舶を攻撃・略奪することがあった。 日本において、文献上「海賊」の記述の初見は『日本書紀』雄略紀(5世紀後半)からである。 9世紀半ばの瀬戸内海では、中央に調庸・雑米を送る船舶が洋上で襲撃される被害が頻発し、海賊鎮圧令(追捕官符)が度々出されている。中世日本の海賊の話としては、13世紀前半成立の『宇治拾遺物語』に、元海賊の老僧侶(海賊時代は「淡路の六郎追捕使」と称した)の話があり、瀬戸内海での無慈悲な行為が語られている(最終的には改心し出家した回顧話)。 国家公認の海賊行為の例とされたのが、9世紀の新羅がある。893年9月に新羅海賊が45艘で対馬を襲撃するも、文屋善友らの善戦により、賊302人殺害、多数兵器を獲得し、捕虜となった賢春の自白により、新羅国の不作で飢饉が発生し、国家財政の補充のため、王命を受けて襲来したとして、その規模、100艘2500人と記す(『日本三代実録』『扶桑略記』)。『三国史記』には、889年に慢性的に窮乏する国家財政の補充のために税賦の取り立てをきつくしたために、広く反乱が起こったと記述されており、国内の反乱を恐れて国外に手を出したとして、賢春の自白は虚言ではないとみられる。しかし、『扶桑略記』の「人々が飢えに苦しんでいるのに、新羅王は穀物絹などの徴収を命じたため、やむを得ず日本にやってきた」という部分の後代の研究者の誤読で、当時の朝廷でも対応を太宰府任せにしていて、新羅国相手の危機感や脅威はなかったと指摘している。 16世紀後半に始まるイギリスとスペインの抗争では、ヨーロッパやカリブ海では交戦相手国の船を略奪してもよい、という国王の私掠免許が出され、私掠船が横行した。また東アジアの倭寇や中国海賊、ペルシア湾のアラブ海賊、北アフリカ沿岸のバルバリア海賊など、海あるところには海賊の姿があった。「降伏すれば命は保証、抵抗すれば皆殺し」の印である海賊旗(ジョリー・ロジャー)は、18世紀になってから使われだしたものである。 専門の海賊職以外にも、半商半賊とでもいうような、商売にやってきてそれが不調だったら海賊になって街を襲うというような形態、あるいは普段は商人だが、他の海賊に対抗するために武力を持ち、たまにそれを使って海賊をするといったような場合もあった。後者の例は、海禁が引かれ私貿易が制限された明後期の16世紀後半に横行し、清に抵抗運動を続けた事で有名な鄭成功の出た鄭一族などが活躍した。 海賊はその出現場所・時代によりさまざまな呼称、形態がある。
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