機動部隊解隊後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 06:50 UTC 版)
大本営海軍部(軍令部)では、第一航空戦隊と第三航空戦隊を再建して「(戦局挽回の)推進兵力タラシム」ことを検討していた。だが戦局の悪化、空母航空兵力の再建に時間がかかりすぎること、戦場が日本本土接近にともない基地航空兵力の主力化など、複数の理由により機動部隊の解散を決定した。11月15日付で実施された戦時編制改定により、第一機動艦隊および第三艦隊は解隊された。それと共に第四航空戦隊は航空戦艦2隻(日向、伊勢)となる(航空機は登載せず)。四航戦に所属していた空母2隻(隼鷹、龍鳳)が第一航空戦隊にうつされ、一航戦は空母5隻(龍鳳、隼鷹、天城、雲龍、葛城)となった。また、一航戦は連合艦隊付属になった。 11月19日、大和型戦艦3番艦改造空母「信濃」が竣工、同日付で第一航空戦隊に編入され、同隊は空母6隻(雲龍、葛城、天城、信濃、龍鳳、隼鷹)となる。11月29日、「信濃」は横須賀から呉に回航中、米潜水艦の攻撃で沈没した。 12月5日、軍令部は「水上兵力ノ使用ニ関スル方針」をまとめた。この中で空母は輸送船やタンカーとして使用するが「機宜航空特攻兵力ヲ搭載シ移動作戦ニ使用ス 尚母艦航空兵力ノ訓練ニモ使用ス」と表記されていた。12月9日、マニラ方面輸送任務を終えて内地帰投中の「隼鷹」は米潜水艦レッドフィッシュの雷撃を受け大破、佐世保に回航された。 当時、連合艦隊司令部は機動部隊所属航空兵力の特攻隊〔(戦爆2〈特攻〉、甲戦2〈直掩〉、艦爆1〈偵察誘導〉)×6隊〕の編成を検討しており、母艦は龍鳳を予定していた。第一航空戦隊司令部は「神武特別攻撃隊」と呼称して訓練を開始、その後は搭載空母を「雲龍」に変更、つづいて「天城」も加えた。12月3日の意見具申時点(一航戦機密第031713番電)では雲龍型2隻(天城、雲龍)と秋月型駆逐艦4隻(当時健在艦は涼月、冬月)で運用し、翌年1月中旬以降には作戦可能の見込みとされた。しかし連合艦隊は母艦作戦をすでに断念しており、空母は輸送任務に、神武特別攻撃隊は航空基地から発進する特攻隊として使用された。12月10日、一航戦司令官は古村少将から大林末雄少将に交代した。12月19日、「雲龍」は特攻兵器桜花輸送任務中に、米潜水艦レッドフィッシュの雷撃を受けて沈没した。「龍鳳」のみ、ヒ87船団に同行して台湾へ桜花58基の輸送任務に成功した。 1945年(昭和20年)1月1日、所属空母4隻(葛城、天城、龍鳳、隼鷹)となった第一航空戦隊は、連合艦隊付属から第二艦隊(司令長官伊藤整一中将)に編入された。燃料不足により大型艦は軍港防空艦にされたが、連合艦隊は軍令部に対し大和型戦艦の「大和」を第二艦隊旗艦とし「第二艦隊ヲ特攻的ニ」使用する意向を示した。この方針にもとづき、大和の第一航空戦隊編入が決まる。2月10日、戦時編制の改定により第一航空戦隊は第二艦隊の直率部隊となる。一航空戦隊司令官大林末雄少将は軍令部出仕となる。一航戦の飛行機隊だった第601海軍航空隊は第三航空艦隊に編入された。同日時点の第二艦隊は、第一航空戦隊(戦艦〈大和〉、空母〈天城、葛城、隼鷹、龍鳳〉)、第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将、軽巡〈矢矧〉、第7駆逐隊、第17駆逐隊、第21駆逐隊、第41駆逐隊)となった。 4月7日、坊ノ岬沖海戦に参加した海上特攻隊は、大和以下6隻(大和、矢矧、磯風、浜風、霞、朝霜)が沈没、第二艦隊司令長官伊藤整一中将(第一遊撃部隊指揮官)も戦死した。 4月20日、第二艦隊・第二水雷戦隊・第一航空戦隊は解隊される。第一航空戦隊の解隊により、残存空母(天城、隼鷹、龍鳳)は同日付で第四予備艦となる。「葛城」のみ連合艦隊付属となった。7月10日、空母「葛城」も軽巡洋艦「大淀」、重巡洋艦「利根」と共に特殊警備艦となった。
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