旧ソ連による逮捕・シベリア抑留とは? わかりやすく解説

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旧ソ連による逮捕・シベリア抑留

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:34 UTC 版)

石原吉郎」の記事における「旧ソ連による逮捕・シベリア抑留」の解説

1945年昭和20年8月石原29歳の時、ハルビン日本の敗戦迎えた一方旧ソ連8月8日依然として有効だった日ソ中立条約破り日本宣戦布告8月9日未明満洲里黒河綏芬河(すいふんが)の3方面から侵攻満洲国戦場になった8月19日旧ソ連国境付近ハンカ湖付近のジャリコーヴォで停戦会談即日停戦と武装解除実施され旧ソ連兵が満洲国占領したその後ただちに旧ソ連は、8月30日国家防衛委員決定に基づきマキシム・サブーロフ (ゴスプラン議長代理) を長とする小委員会指揮の下、「戦利品としての高価な設備一式」を満州国から撤去旧ソ連国内大量に搬送した。「戦利品」として旧ソ連接収したものは、工業設備ダム鉄道設備などで、日本の外務省調査によると、満洲国の約8割の設備旧ソ連によって撤去され、約4割が旧ソ連国内運び込まれたという。 一方満洲国内の日本人は、スターリン指令により、関東軍兵士だけでなく、満洲国官吏満鉄職員協和会の役員軍属開拓民団や、女性を含む民間人捕虜扱いされ、逮捕連行された。日本人捕虜旧ソ連国内への移送に関する公文書少なくその実態は依然として不明であるが、9月中旬には始まっていたようである。捕虜移送は、貨車河川よるものの他、一部徒歩行軍によって行われた貨車による移送きわめて劣悪、非衛生環境行われ旧ソ連軍は日本人捕虜家畜同然に扱い給食与えず冬服支給せず、栄養失調寒さによるチフスなどの伝染病蔓延放置した石原直接関係した動きを追うと、8月15日石原部隊解散しハルビン市内の日本人居住地区から、下町の混住地区疎開した。単行本『海を流れる河』の石原自身による略歴によると、8月中旬になると一旦行動停止していたソ連軍一斉に南下西進開始ハルビン市内ではソ連軍の進駐直後から略奪暴行始まり8月いっぱい旧ソ連兵による略奪暴行強姦荒れ狂ったが、9月に入ると突然やんだという。 収入絶たれ石原この間ハルビン雑役下水掃除をして生計立てていたが、12月逮捕された。原因白系ロシア人による密告である。 12月末、新京ハルビン逮捕され日本人捕虜たちは貨車載せられ旧ソ連国内強制収容所移送された。石原載せた貨車は、カザフスタンアルマ・アタ向かい、第40収容所第3分所収容された。 シベリア抑留体験者が等しく語るところでは、1945年昭和20年)から1946年昭和21年)にかけての冬に最も死者多かったことがわかっている。全日本抑留者の死亡者約6万人のうち、この時期に約80%の人が亡くなったと言われている。これは、第2次世界大戦後遺症旧ソ連全体飢饉の状態であったことに加えてこの年は冬の寒さ例年以上に厳しかったことや、ラーゲリ運営・管理きわめて非効率ずさんだったことにもよる。 石原収容され第3分所例外ではなく食糧組織的な横流しが行われており収容者は主に栄養失調原因亡くなった (収容者800人のうち約2割が収容後半年の間に亡くなった)。

※この「旧ソ連による逮捕・シベリア抑留」の解説は、「石原吉郎」の解説の一部です。
「旧ソ連による逮捕・シベリア抑留」を含む「石原吉郎」の記事については、「石原吉郎」の概要を参照ください。

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