旧ソ連による逮捕・シベリア抑留
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「石原吉郎」の記事における「旧ソ連による逮捕・シベリア抑留」の解説
1945年(昭和20年)8月、石原は29歳の時、ハルビンで日本の敗戦を迎えた。一方、旧ソ連は8月8日、依然として有効だった日ソ中立条約を破り日本に宣戦布告、8月9日未明、満洲里、黒河、綏芬河(すいふんが)の3方面から侵攻、満洲国は戦場になった。 8月19日、旧ソ連国境付近のハンカ湖付近のジャリコーヴォで停戦会談、即日、停戦と武装解除が実施され、旧ソ連兵が満洲国を占領した。その後ただちに旧ソ連は、8月30日の国家防衛委員会決定に基づきマキシム・サブーロフ (ゴスプラン議長代理) を長とする小委員会の指揮の下、「戦利品としての高価な設備一式」を満州国から撤去、旧ソ連国内に大量に搬送した。「戦利品」として旧ソ連が接収したものは、工業設備、ダム、鉄道設備などで、日本の外務省の調査によると、満洲国の約8割の設備が旧ソ連によって撤去され、約4割が旧ソ連国内に運び込まれたという。 一方、満洲国内の日本人は、スターリン指令により、関東軍兵士だけでなく、満洲国の官吏、満鉄職員、協和会の役員、軍属、開拓民団や、女性を含む民間人も捕虜扱いされ、逮捕、連行された。日本人捕虜の旧ソ連国内への移送に関する公文書は少なくその実態は依然として不明であるが、9月中旬には始まっていたようである。捕虜の移送は、貨車や河川によるものの他、一部は徒歩行軍によって行われた。貨車による移送はきわめて劣悪、非衛生な環境で行われ、旧ソ連軍は日本人捕虜を家畜同然に扱い、給食を与えず、冬服を支給せず、栄養失調、虱と寒さによるチフスなどの伝染病の蔓延を放置した。 石原に直接関係した動きを追うと、8月15日、石原の部隊は解散し、ハルビン市内の日本人居住地区から、下町の混住地区へ疎開した。単行本『海を流れる河』の石原自身による略歴によると、8月中旬になると一旦行動を停止していたソ連軍が一斉に南下・西進を開始、ハルビン市内ではソ連軍の進駐直後から略奪・暴行が始まり、8月いっぱい旧ソ連兵による略奪、暴行、強姦が荒れ狂ったが、9月に入ると突然やんだという。 収入を絶たれた石原はこの間ハルビンで雑役や下水掃除をして生計を立てていたが、12月に逮捕された。原因は白系ロシア人による密告である。 12月末、新京とハルビンで逮捕された日本人捕虜たちは貨車に載せられて旧ソ連国内の強制収容所に移送された。石原を載せた貨車は、カザフスタンのアルマ・アタに向かい、第40収容所第3分所に収容された。 シベリア抑留体験者が等しく語るところでは、1945年(昭和20年)から1946年(昭和21年)にかけての冬に最も死者が多かったことがわかっている。全日本人抑留者の死亡者約6万人のうち、この時期に約80%の人が亡くなったと言われている。これは、第2次世界大戦の後遺症で旧ソ連全体が飢饉の状態であったことに加えて、この年は冬の寒さが例年以上に厳しかったことや、ラーゲリの運営・管理がきわめて非効率、ずさんだったことにもよる。 石原が収容された第3分所も例外ではなく、食糧の組織的な横流しが行われており収容者は主に栄養失調が原因で亡くなった (収容者約800人のうち約2割が収容後半年の間に亡くなった)。
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