日本の変革
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「南北朝時代 (日本)」の記事における「日本の変革」の解説
南北朝の内乱における上部構造と下部構造の変化は、日本という国の有り様を根底から変革した。 農業面では、施肥量の増大や水稲の品種多様化、灌漑施設の整備によって稲の収穫量が高まり、また、鎌倉時代にもたらされた二毛作が普及するなど、生産力が著しく向上した。こうして、食料生産が十分になったことにより、カラムシ(糸が作れる)、真綿、エゴマ(油が取れる)などの原料作物も多く作れるようになった。 商工面では、上記の原料作物の生産力向上により、簾(すだれ)、蓆(むしろ)、油、索麺(そうめん)などが世間に流通するようになった。 経済面では、上記の商工面の向上に伴い、貨幣経済が一般に浸透した。ただし、1270年代に、中国で元朝が南宋を征服して交鈔(紙幣の一種)を普及させたことから、余った宋製の銅銭が、大量に日本になだれこんだことも大きい。1995年には、大田由紀夫が「商工業が発達したから貨幣が出回った」のではなく、むしろ「(南宋の滅亡により)貨幣が出回ったから商工業が発達したのではないか」という説を唱え、2014年現在はこちらの説が支持されるようになっている。 土地売買に用いられる銭の利用率について、1200年は20%未満だったのが、1250年には50%を超え、(広義の)南北朝時代が始まる直前の1320年には75%超となっていた。銅銭の普及は、紙媒体である割符などの手形の普及にも繋がっていく。 文化面では、上記の農業・商工・経済の発達によって、民衆の勢力が増し大衆文化が隆盛し、猿楽(能楽)・連歌・闘茶(茶道の原型)・ばさら(かぶき者・歌舞伎の原型)などが生まれた。 宗教面では、古い寺社と結びつく南朝や公家勢力に対抗するために、室町幕府は新しく日本に輸入された仏教である禅宗を優遇し、京都五山を定めた。 外交面では、上記の宗教面で台頭した禅僧が中国事情に詳しかったことから、明との外交顧問を務めた。 学術面では、上記の宗教面・外交面の進展により、儒学の新解釈である宋学が中国から輸入されるようになった。北畠親房『神皇正統記』(1343年)は、執筆目的としては南朝の正統化ではあるものの、血筋や神器だけではなく「徳」を持つ者が帝位に相応しいという宋学思想が色濃く反映されており、江戸時代の儒家にも影響を与えている。日本における数学は一時衰えていたが、鎌倉時代末期から南北朝時代には禅寺で再び学ばれるようになった。代表的数学者には臨済宗の中巌円月がおり、主著『觿耑算法』は散逸したが、『治暦篇』に帯分数の使用や繁分数計算についての言及が残る。川本慎自は、戦国時代の臨済僧策彦周良と吉田家の関係を指摘し、江戸時代の角倉了以や吉田光由(『塵劫記』の著者)の数学知識は、禅寺での数学学習に端を発する可能性もあるのではないかとしている。 文芸面では、上記の宗教面・外交面・学術面の発展から、漢詩が普及し、絶海中津・義堂周信を双璧とする五山文学が禅林で隆盛した。また、商工面の発展ともあいまって、禅僧春屋妙葩らにより五山版と呼ばれる木版印刷技術が最盛期を迎えた。前述した宋学の影響も文学に見られ、日本最大の叙事詩『太平記』は、その頂点を為すものである。 芸術面では、前記、経済面の充実と文芸面の五山文学の影響から、禅の思想が実体に反映されるようになり、禅庭が完成された。夢窓疎石の天龍寺庭園(1339年)と西芳寺庭園(1339年)は世界遺産に登録されている。さらに、連歌の完成者二条良基・能楽の完成者世阿弥らによって、それまでは仏教思想の一部であった「幽玄」が、日本芸術の審美的理想として捉えられるようになった。 こうして、南北朝の内乱は、生産力から美意識まで、全ての角度において、新しい日本を形成していくことになった。
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