日本における研究史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:59 UTC 版)
古墳時代中期の威信財のひとつ銘文鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣) 威信財論が本格的に日本に導入されるのは1990年代であるが、それ以前から威信財論的な視点はあった。特に1950年代に小林行雄が提唱した三角縁神獣鏡の同笵鏡論は威信財論を先取りした成果と評価されている。小林は、同笵鏡論と伝世鏡論を両輪として古墳の発生・男系世襲制の成立・大和政権の勢力拡大などの社会変化を銅鏡を中心に論じた。この小林の仮説は実証面から批判が相次ぎ、2010年代ではほぼ否定されているが、古墳時代の開始過程の研究に今なお影響を残している。 欧米での威信財研究を最初に日本の考古学に導入したのは1985年の穴沢咊光の論考である。しかし穴沢の発表はマイナーな媒体であったため普及しなかった。 1990年代前半からは、古墳時代を中心に多彩な器物が威信財と見なされた。松木武彦の鉄鏃の流通における「威信財重層モデル」など意欲的な提示もあったが、全体的には理論検討や明確な基準もなく、威信財に認定する傾向があった。 1990年代末からは、威信財の用語が濫用される。旧石器時代の石槍、縄文時代の硬玉製大珠・木の葉文浅鉢形土器、弥生時代の青銅製武器形祭器・銅鐸、古墳時代の銅鏡・金銅製品・石製品・武器武具・馬具、歴史時代の陶磁器・茶器など、あらゆる時代の貴重品や高級品が威信財と言い換えられた。その一方で、こうした器物が如何なる機能や役割を果たしたのかという重要な論点が看過された。 理論面での検討に先鞭をつけたのは河野一隆である。河野は威信財を「生産型威信財」と「非生産型威信財」に区別し、弥生時代から古墳時代の社会を考察した。特に「外部から威信財が継続して流入し、威信財が氾濫して社会システムが破綻する事態を、威信財の副葬により消費することで克服した」とする威信財の更新という視点は画期的であった。 2000年代からは日本における威信財論の弱点を克服する動きが見られるようになる。石村智は、流通パターンから「循環する威信財」「分配する威信財」「生産される威信財」に類型化し、オセアニア諸地域と日本列島の親族関係・生態系・民族事例を検討し、「威信財システムへの依存から脱却することにより社会の階層化が行われる」とする視点を提示した。 辻田純一郎は、フリードマンらの威信財システムの枠組みを参考に、日本列島の国家形成プロセスのモデル構築を行った。辻田は、威信財を「入手・使用・消費が上位層に独占され、且つそのサイクルが社会的再生産のプロセスと不可分に埋め込まれたもの」と定義し、銅鏡や銘文鉄剣が中央政権と地方有力者を繋げる器物であると指摘した。さらに、こうした威信財システムが機能した古墳時代においても前期と中期で様相が異なる事や、後期に至るとミヤケ制・国造制・部民制が整い威信財が役割を終えることで社会構造が変化し、古代国家が誕生したと推測した。
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