教育・研究の拡充
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「山口高等商業学校」の記事における「教育・研究の拡充」の解説
山口高商の教員は、先行の東京高商(のち東京商大)・京都帝大法科(のち経済学部)の出身者によって大半と占められており、その後、(官立)神戸商大出身者も増加した。 本校は設立当初から「滿韓地方ノ實業ニ從事」する人材の育成を標榜し、第二外国語科目として「清・韓」2言語の選択を指定、1907年以降は満韓・清韓方面の修学旅行が開始され、生徒には報告書の提出が義務づけられた。1908年4月には中国人留学生を対象として修業年限1年の特設予科が設置されたが、3年後の1911年10月、修学旅行をめぐる清国留学生の同盟休学事件が起こったため廃止となっている。 第一次世界大戦開始後、日本の近隣アジア諸国への経済進出が本格化すると、高商各校ではこれらの地域での貿易実務者の養成に力を入れたが、山口高商においても1915年4月、本学卒業者を対象に「対支商業」に必要な知識の修得を目的とする、修業年限1年の「支那貿易講習科」を設置、1918年には「支那貿易科」と改称した。さらに1929年には、日本の市場圏拡大を背景に、中等学校卒業者を対象に中国・南アジア・南米の市場開拓に従事する人材の速成教育を目的とする、修業年限1年の「貿易別科」が設置された。 教育の拡充とともに研究活動も進展がみられた。1908年には各地の商品見本を学外にも公開する「商品陳列室」が竣工し、同年より1920年に至るまで生徒による内外各地の実地調査制度が行われた。また1917年2月には学内研究団体として東亜経済研究会が発足し、同年5月より機関誌『東亞經濟研究』の刊行が開始され、次いで1927年10月に発足した山口高商商学会を刊行主体として『山口商學雑誌』が創刊された。以上の動きと並行して研究拠点の整備も進み、1921年7月には商業研究所が設置され、その後「調査部」(1922年)⇒「調査課」(1926年)と改称された。 これらの動きとともに山口高商は旧制大学への昇格運動をすすめた。設立直後の1905年には早くも大学昇格運動が起こっているが、大正期に入り高等教育拡充の動きが本格化すると、1918年、山口高商は商科大学への昇格運動(第2次)を進めたが実現しなかった。
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教育・研究の拡充
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「長崎高等商業学校」の記事における「教育・研究の拡充」の解説
長崎高商は、先行の東京高商にならい商業学校出身者よりも中学出身者からの入学者を中心としたが、教育に関しては神戸高商と同様、実務の習得を中心とする方針が取られた。特に商品知識を学ぶための商品学が重視され、工業製品・商品を陳列する「商品館」が設置された。この結果、本校の卒業者は半数近くが銀行・会社・商店員の職に就いた。 また本校は設立時より「清・韓・南洋方面に雄飛活躍すべき人材」の育成を標榜しており、開校当初は第二外国語として「清・韓・独」の3言語の選択が指定され、1907年度より清・韓方面への修学旅行を開始した。第一次世界大戦開始にともなう日本の東南アジアへの経済進出拡大により、各官立高商で、貿易実務者の養成課程が設置されるようになると、1917年(大正6年)5月には長崎高商でも「海外貿易科」が設置され、高商卒業生を対象として国際貿易・国際商業業務に従事する人材の育成がすすめられ、1923年以降、本科でも東南アジアでの活動を念頭に第二外国語としてオランダ語・スペイン語・マレー語の3言語が追加された。1923年1月には中国からの留学生を対象に5ヶ月間の準備教育科が設置され、同科はその後の改編を経て、最終的には修業年限1年の「特設予科」となった。さらに1929年(昭和4年)3月には中等学校卒業者を対象とする修業年限1年の「貿易別科」が設置され、「支那・南洋貿易」業務が速成学習を目的とした。 以上のような教育課程の充実と並行して、研究活動も活発化した。1919年11月に竣工した「研究館」は、先述の海外貿易科の研究拠点とされ、1921年4月より年報『商業と経済』を刊行した。
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