戦中・戦後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 14:13 UTC 版)
「阪急920系電車」の記事における「戦中・戦後の動向」の解説
日中戦争から太平洋戦争に向かう過程で戦時色が濃厚になり、本形式も1次車から3次車までが1939年に灯火管制工事を実施され、4・5次車は当初から灯火管制機能付きで製造された。 5次車の登場後、600形を軍需工場への通勤客輸送で乗客が急増した今津線に振り向け、神戸線は920系・900形と800形電動車グループの大出力電動機搭載車で揃えた。戦時下においても特急の運転は継続されていたが1944年12月に休止され、残った急行も戦争末期で空襲が激化した1945年6月に休止された。本形式は900形のように座席撤去改造は実施されなかったが、929と951は1945年8月5日に西宮車庫で空襲により被災した。また955も被災している。ただ、全鋼製車体で車体や台枠に大きな損傷がなかったことから、戦後復旧されている。この他、972が春日野道駅で609に追突され[要出典]て長期休車となっていた。 戦後の混乱期には、車両をやり繰りする過程で末尾の車番が異なる編成が出現し、物資不足の中電装品の修理や割れた窓ガラスの破損に苦労したが、900形をはじめとした他形式同様窓ガラスには小割のガラスを細い桟でつなぎ、時には「阪急百貨店のショーケースを転用して補充したのではないか」とまで言われるほどの苦労をして補充に努めた。それと同時に、一部の車両は6次車同様窓の保護棒を2本にして、乗客が窓から乗車するのを防いだ。 神戸線は1947年4月1日に急行運転を復活、翌1948年5月に6次車が登場、1949年4月には特急の運転も復活した。阪神間30分と1930年の運転開始当初の時間までスピードダウンしたが、復興へ一区切りつくことができた。また、戦時中以降は3両編成での運行が常態化しており、本形式の前に900形や連合軍専用車の指定を解除された650形電動車を連結することが多くなっていた。6次車などに取り付けていた窓の保護棒も、世相の落ち着きや桜木町事故後の乗客の脱出経路確保のため、1955年ごろまでには全車撤去された。 1949年には800系が、翌1950年には810系が登場したが、前者は920系の増備車的存在、後者は複電圧車で神戸 - 京都間の直通特急を中心に運用されており、本形式はそれまでと同様、神戸線の主力車として運用されていた。1953年4月のダイヤ改正で昼間時の特急が10分間隔で運転されるのと同時に、特急全列車が4両編成で運行されるようになると、本形式を二組連結した4両編成を組んだほか、本形式の前に900形を2両連結することもあった。また、1950年の800系2次車登場後は、このグループが前面非貫通式の運転台であったことから、本形式のうち2編成を背中合わせに分割して800系2次車の中間に組み込み、2+2の4両編成を組成した。時には2両で今津線や伊丹線といった支線にも入線することもあった。
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