愛媛大学着任後とは? わかりやすく解説

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愛媛大学着任後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 06:21 UTC 版)

篠崎勝」の記事における「愛媛大学着任後」の解説

1951年2月愛媛大学文理学講師として松山帰郷した1943年太田量子結婚して長男1945年生)、次男1948年生)の4人家となっていた。松山着任した時は、「一隅を照らす、是即ち国宝なり」(最澄)の思いであった教え子語っている。 1951年教員学生が平等の立場会員になるという原則で、愛媛大学歴史学研究会創立参加した。ついで、1953年星島一夫らと愛媛大学地域社会総合研究所所長学長)を創設して、人文・社会科学自然科学共同研究めざして地域社会民主化」を基本テーマかかげた同年最初教え子卒業した。彼らが、僻地小学校の教師になっても、大学院進んでも、企業就職して平等に研究できる体制作るために、この年8月近代史文庫創立した代表者篠崎勝)。自分著書・資料をすべて文庫共有とした。1956年には、愛媛女教師などを中心に創立され女性史サークル参加し当初より指導的な役割果たした1956年愛媛第一次勤評闘争始まり警職法反対闘争1960年安保闘争と続く中で、篠崎勝は、県教員組合聯合青年団愛媛地評、自治労母親大会などの労働者住民運動の中での講演活動重ねていった。近代史文庫当初卒業生中心であったが、10周年の頃から地域教師労働者住民など広く参加した1968年篠崎勝は県歴史教育者協議会委員長となり、「明治百年批判講演会県内各地開催した1973年歴史教育研究協議会全国大会松山市開催され会員玉上陸朗・川又美子・澄田恭一とともに「ここに生き住み働き学び闘う」のスローガン提示した愛媛報告〟を行った1971年には愛媛大学学生部長となり、「学園紛争」の収拾にあたるとともに教員・職員学生による大学自治あり方考えつつ「管理運営」に関わった(1971年5月1975年1月)。1973年には、愛媛民主教育研究所設立され所長就いた1983年愛媛大学定年退職した。その前後から人権擁護委員をつとめ(就任時期不明)、毎日のように近代史文庫通った1990年には愛媛退職教職員協議会発足して会長就いた1998年、「篠崎先生傘寿を祝う会」が開かれ170人が参加したさながら戦後愛媛民主的運動の騎手たちの集まり〟だつた。この中で篠崎勝は「愛媛住民記録係」と題する講演をした。 1999年3月14日大腸癌のため死去した。「葬式告別式香典戒名・墓など無用」の遺言残したため、遺言通り多く人々見送った翌年から命日(前後)には「教え子」たちにより「星歩忌」が続けられている。

※この「愛媛大学着任後」の解説は、「篠崎勝」の解説の一部です。
「愛媛大学着任後」を含む「篠崎勝」の記事については、「篠崎勝」の概要を参照ください。

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