愛媛大学着任後
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1951年2月、愛媛大学文理学部講師として松山に帰郷した。1943年に太田量子と結婚して、長男(1945年生)、次男(1948年生)の4人家族となっていた。松山着任した時は、「一隅を照らす、是即ち国宝なり」(最澄)の思いであったと教え子に語っている。 1951年、教員と学生が平等の立場で会員になるという原則で、愛媛大学歴史学研究会の創立に参加した。ついで、1953年、星島一夫らと愛媛大学地域社会総合研究所(所長は学長)を創設して、人文・社会科学・自然科学の共同研究をめざして「地域社会の民主化」を基本テーマにかかげた。同年、最初の教え子が卒業した。彼らが、僻地の小学校の教師になっても、大学院に進んでも、企業に就職しても平等に研究できる体制を作るために、この年の8月近代史文庫を創立した(代表者・篠崎勝)。自分の著書・資料をすべて文庫の共有とした。1956年には、愛媛の女教師などを中心に創立された女性史サークルに参加し、当初より指導的な役割を果たした。 1956年愛媛の第一次勤評闘争が始まり、警職法反対闘争、1960年安保闘争と続く中で、篠崎勝は、県教員組合、聯合青年団、愛媛地評、自治労、母親大会などの労働者・住民の運動の中での講演活動を重ねていった。近代史文庫は当初は卒業生が中心であったが、10周年の頃から地域の教師・労働者・住民など広く参加した。 1968年篠崎勝は県歴史教育者協議会委員長となり、「明治百年」批判の講演会を県内各地で開催した。1973年歴史教育者研究協議会の全国大会が松山市で開催され、会員の玉上陸朗・川又美子・澄田恭一らとともに「ここに生き、住み、働き、学び、闘う」のスローガンを提示した〝愛媛報告〟を行った。1971年には愛媛大学学生部長となり、「学園紛争」の収拾にあたるとともに、教員・職員・学生による大学自治のあり方を考えつつ「管理運営」に関わった(1971年5月~1975年1月)。1973年には、愛媛民主教育研究所が設立され所長に就いた。 1983年愛媛大学を定年退職した。その前後から人権擁護委員をつとめ(就任時期不明)、毎日のように近代史文庫に通った。1990年には愛媛退職教職員協議会が発足して会長に就いた。1998年、「篠崎先生の傘寿を祝う会」が開かれ170人が参加した。さながら〝戦後愛媛の民主的運動の騎手たちの集まり〟だつた。この中で篠崎勝は「愛媛住民の記録係」と題する講演をした。 1999年3月14日、大腸癌のため死去した。「葬式・告別式・香典・戒名・墓など無用」の遺言を残したため、遺言通りに多くの人々が見送った。翌年から命日(前後)には「教え子」たちにより「星歩忌」が続けられている。
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