悲願の金メダル
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1977年に講道館で女子柔道の指導を始めてから約3年 - 1980年にニューヨークで第1回世界選手権が開催されると、本家の日本から乗り込んできたという事で日本選手団は世界から注目を集めたが、結果は見事な惨敗であった。8階級のうち重量級を除く7階級にエントリーした日本だったが、軽軽量級の山口香が銀メダルを獲得(それでも決勝戦では相手の腕挫十字固にいとも簡単に降参をするという試合内容であった)したのみで4人が1回戦敗退を喫し、翌日の新聞にも「お家芸、形なし」と書き立てられている。試合内容もさる事ながら、試合中に道衣の乱れを直す際、日本選手達は審判の“待て”の号令も掛かっていないのに相手に背を向けて裾を直すシーンすらあり、これにはさすがの柳沢も驚かさせられた。大会後には団長の大沢と途方に暮れ「これじゃ日本に帰れない」と嘆き合ったという。2年後、1982年のフランス国際大会では柳沢が強化委員会に頼み込む形で2選手を出場させて貰ったが、結果は2人合わせて4戦4敗。男子柔道は国際大会に出たら金メダルを獲って帰ってくるのが当然の時代、強化委員会では「女子柔道の強化は金をドブに捨てるようなもの」とも揶揄されていただけに、またも大沢と共に頭を抱える事となってしまった。結局、身銭を切って強化委員会の諸先生にフランス製のボールペンを土産として買って帰る事で何とかごまかし乗り切った。しかし一方で、世界選手権とフランス国際大会で味わった大敗の悔しさが、柳沢を女子柔道の指導・強化へのめり込ませる事にもなっていった。 1984年にウィーンで開催の第3回世界選手権で山口香が軽軽量級を制して、日本女子柔道史上初めての金メダルを獲得すると、帰りのJALの飛行機ではお祝いの機内アナウンスが流れシャンパンが振る舞われた。帰国すると記者会見も用意されており、「これがメダルを獲る事なんだとしみじみ嬉しくなった」「女子柔道が認知された瞬間だと思った」と柳沢。以降はマスコミの取材も増え、更に1986年には漫画『YAWARA!』の連載が始まると、女子柔道は人気を博し空前のブームとなった。こうなると選手達の練習にも俄然熱が入り、いつしか“女子強化コーチ”の肩書は柳沢にとって誇りにすらなっていった。次いで、監督として臨んだ1988年のソウル五輪では女子は公開競技ながら出場した5人全員がメダルを獲得し、中でも中量級の佐々木光が過去3度世界王者に輝いたフランスのブリジット・ディディエを棄権勝で降して金メダルを獲得。男子の金1、銀0、銅3という成績に対し女子は金1、銀1、銅3とこれを上回り、柳沢と選手達の努力が実を結んでその実力が証明された大会ともなった。ただし柳沢はこの結果にも浮かれる事無く、五輪後も選手には前述の反省レポートを書かせており、そのレポートでは選手達の感激と感謝の気持ち、そして更なる精進への決意が滲み出ていたという。 このように益々人気を博した女子柔道だったが、一方で選手達の受け皿という点で問題を抱えていた。当時は男子のように実業団の柔道部があるわけでもなく、女子選手達は一生懸命練習しても生活ができないという当時の状況を打開すべく、柳沢は民間企業のほか警察や自衛隊も駆けずり回った。その結果、企業として応援するスポーツを探していた住友海上火災保険(現・三井住友海上火災保険)と思惑が一致し、ここに柔道部が創設されて女子柔道史の新たな一歩となった。柳沢は当時強化委員長の神永昭夫から、またも「他にやる人間がいない」という理由で住友海上火災の監督に任命され、全柔連の女子強化副部長と電気通信大学教授を兼務しての多忙にも拘らず柳沢はこれを快諾した。
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悲願の金メダル
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「リンゼイ・ジャコベリス」の記事における「悲願の金メダル」の解説
2022年に、北京オリンピックのスノーボードクロスに36歳でオリンピック連続5回目の出場を果たした。2月9日の決勝ではスタートから終始トップを譲らない展開で優勝し、16年越しとなる悲願の金メダルを獲得。この金メダルは、北京オリンピックでのアメリカの金メダル第1号だった。さらに、2月12日には北京オリンピックから新種目となった混合団体スノーボードクロスに40歳のニック・バウムガートナーと出場し、この種目でも金メダルを獲得して2冠を達成した。混合団体のゴール前では、トリノのときのようなグラブトリックを少し入れたが、今度は転倒せずに見事1位でゴールした。 バウムガートナーにとっても、4大会連続のオリンピック出場で平昌オリンピックの4位が最高成績だったため、悲願の金メダルとなった。
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