悲願の成就と敗北
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永禄11年(1568年)2月8日、義栄が朝廷から征夷大将軍に任じられ、室町幕府の第14代将軍となった。篠原長房ら阿波の諸将にとって、義栄の将軍就任は長年の宿願の達成であった。 無論、義維にとっても宿願の達成であった。義維は義栄に同道していたこともあって、将軍就任をはじめ、実際に主体的に動いたのは義維であった可能性もある。義維は将軍の父・大御所として、義栄を後見しようとした。 そして、義栄は義維と苦楽を共にしてきた重臣・畠山維広、及びその2人の息子である畠山伊豆守、畠山孫六郎をはじめ、三好三人衆筆頭の三好長逸らを登用し、自身を中心とした幕府を構築しようとした。だが、義栄の幕府はそう長くは続かなかった。 7月、義昭が信長を頼って、越前から美濃に赴き、義昭は信長によって擁立されることになった。義昭を擁する織田信長や三好義継、畠山秋高らの陣営に比べると、義栄の陣営は明らかに劣勢であった。 9月7日、織田信長が足利義昭を奉じて、美濃岐阜を出発し、上洛戦を開始した。義栄方の六角義賢は瞬く間に敗れ、三好三人衆も畿内において信長に抗戦したが、その進撃を止めることができなかった。信長の先陣が摂津に侵攻すると、29日に長逸は芥川山城を退去した。長逸が退去したのち、30日に信長が芥川山城に入城し、義栄の在所である富田などを焼き払った。 この頃、義栄は腫物を患って病床にあり、篠原長房に勧められ、阿波で養生することになった。そのため、10月1日に義栄は篠原長房や三好長治らとともに阿波へと退いたが、同月に撫養で死去した。また、9月の段階で、富田の普門寺において死去していたともいう。いずれにせよ、義維の夢は瞬く間に崩れ去る形となった。
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