悲願の成就と敗北とは? わかりやすく解説

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悲願の成就と敗北

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:09 UTC 版)

足利義維」の記事における「悲願の成就と敗北」の解説

永禄11年1568年2月8日、義栄が朝廷から征夷大将軍任じられ室町幕府第14代将軍となった篠原長房阿波諸将にとって、義栄の将軍就任長年宿願達成であった無論、義維にとっても宿願達成であった。義維は義栄に同道していたこともあって、将軍就任をはじめ、実際に主体的に動いたのは義維であった可能性もある。義維は将軍の父・大御所として、義栄を後見しようとした。 そして、義栄は義維と苦楽を共にしてきた重臣畠山維広、及びその2人の息子である畠山伊豆守畠山六郎をはじめ、三好三人衆筆頭三好長逸らを登用し自身中心とした幕府構築しようとした。だが、義栄の幕府はそう長くは続かなかった。 7月義昭信長頼って越前から美濃に赴き、義昭信長によって擁立されることになった義昭擁する織田信長三好義継畠山秋高らの陣営比べると、義栄の陣営明らかに劣勢であった9月7日織田信長足利義昭奉じて美濃岐阜出発し上洛戦を開始した。義栄方の六角義賢瞬く間敗れ三好三人衆畿内において信長抗戦したが、その進撃止めることができなかった。信長先陣摂津侵攻すると、29日に長逸は芥川山城退去した。長逸が退去したのち、30日信長芥川山城入城し、義栄の在所である富田などを焼き払ったこの頃、義栄は腫物患って病床にあり、篠原長房勧められ阿波養生することになった。そのため、10月1日に義栄は篠原長房三好長治とともに阿波へと退いたが、同月撫養死去したまた、9月段階で、富田普門寺において死去していたともいう。いずれにせよ、義維の夢は瞬く間崩れ去るとなった

※この「悲願の成就と敗北」の解説は、「足利義維」の解説の一部です。
「悲願の成就と敗北」を含む「足利義維」の記事については、「足利義維」の概要を参照ください。

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