悲願成就
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:44 UTC 版)
「ナイジェル・マンセル」の記事における「悲願成就」の解説
1992年、ウィリアムズはアクティブサスペンションなどのハイテク機器を搭載したFW14Bで序盤から圧倒的な速さを見せる。マンセルはチームメイトのリカルド・パトレーゼをも圧倒し、前年のセナの開幕4連勝を上回る開幕5連勝、さらに第8戦フランスグランプリから第10戦ドイツグランプリまで3連勝を達成。過去の苦い経験が嘘のようにチャンピオン争いを独走する。第11戦ハンガリーグランプリにおいてついに念願のワールドチャンピオンに輝き、表彰台で男泣きした。最終的に全16戦中14回のポールポジション、計9勝(すべてポールトゥーウィン)を記録して、1988年のセナの記録13ポールポジション、8勝を塗り替えた。年間最多ポールポジション記録は2011年にセバスチャン・ベッテルが全19戦中15ポールポジションを記録するまで19年間破られなかった(ただし年間占拠率に換算すると、2011年のベッテルは約78.9%に対し、1992年のマンセルは87.5%に達し、その場合マンセルの記録は未だ破られていない)。また1980年のデビューから12年経過しており、当時のマリオ・アンドレッティの10年を破り「デビューから最も遅いチャンピオン」であった。 しかし一方で、ウイリアムズのオーナー、フランク・ウィリアムズは自チームのマシンなら誰が乗ってもタイトルを取れると確信しており、セナやプロストも加わりシート争奪戦が加熱した。プロストは前年からウィリアムズと接触し、ハンガリーグランプリ前に1993年の契約に成功。更にセナがマスコミを通じて「ウィリアムズに乗れるなら無給でもいい」と発したメッセージをフランク・ウィリアムズが契約交渉に持ち出し、(プロストとの契約上)セナが加入する可能性はないにもかかわらず大幅な年俸ダウンを提示した。 政治的駆引きに疲れたマンセルは、チャンピオン決定からわずか2戦後の第13戦イタリアグランプリで2度目の引退表明を行った。その直前、広報担当のアン・ブラッドショーからマンセルが引退会見を開くと知らされたフランク・ウィリアムズは、急遽マンセルの記者会見場にスタッフを派遣し、「条件は全て受け入れるからやめてくれ」とのメッセージを送った。しかしマンセルはそれを突っぱねて会見を続行し、「私の力の及ばない理由により、今シーズン限りでのF1からの引退を決めた」と発言した。 さらにイタリアグランプリの後、翌年から北米のCARTシリーズに転向することを表明した。当時、マンセル一家がイギリスのマン島から気候のいいアメリカのフロリダ州クリアウォーターに移住していたことも好都合だった。 なお、この電撃移籍に関し一部のイギリス国民が激怒し、ディドゥコットのウィリアムズ・エンジニアリング本社にデモ行進をする過激派も現れた為チームは「我々は元々93年マンセルで行くつもりだった、決裂したのは彼のせいだ」と声明を出した。
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