律令祭祀の変容と平安祭祀
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「神道の歴史」の記事における「律令祭祀の変容と平安祭祀」の解説
平安時代に入ると、律令制の弛緩に伴って律令祭祀制度も変容していった。 798年(延暦17年)には、全国の官社への班幣という制度が維持できなくなり、官社を、以前の通り神祇官より班幣を行う官幣社と、国府から班幣を行う国幣社に二分することとなった。また、大社・小社の分類も行われ、特に霊験の大きな神社は名神大社とされた。それらの区分は、後述する927年(延長5年)の延喜式神名帳にまとめられている。 また、律令制の弛緩に伴う天皇内廷機構の伸長により、神祇官が関与せず天皇や近臣が直接関与して、関係の強い特定神社の恒例祭祀を国家公的の性格を付与して行う公祭という祭祀が、奈良時代後期から平安時代初期に生じた。称徳天皇朝に藤原光明子らが先導して藤原氏の氏神を祀る春日神社の恒例祭を公祭化したのが始まりである。さらに、天皇権の伸長によるものとして、臨時祭が行われるようになる。臨時祭とは、恒例祭祀を除く特定神祇への祭祀であり、天皇が直接祭使を派遣して行う形式である。その初例は宇多天皇朝に宇多天皇が受けた神託に基づいて行われた賀茂臨時祭であり、後に恒例化するものも含めて臨時祭と呼称された。 昇殿制が整備された宇多天皇朝においては、天皇が内裏で毎朝石灰壇と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する毎朝の御拝や、特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使の制度が始められるなど、天皇や近臣が直接関与する祭祀が一層拡大した。また、朱雀天皇朝には最も丁重な天皇御願祭祀である行幸が初めて行われた。今までの祭祀では、天皇はあくまで宮中にとどまって祭使を派遣するのみであったが、行幸では天皇が直接神社の行宮まで赴いて、そこから祭使を派遣するという点が今までにない形態である。 また、この頃には貴族内で氏神祭祀に関する関心が高まり、斎部広成が斎部氏(忌部氏)の伝承について記述し中臣氏に対抗した『古語拾遺』や、物部氏によって作られたと考えられる各氏の伝承をまとめた『先代旧事本紀』、さらに各氏の出自や伝承などをまとめた官選の『新撰姓氏録』も作られ、各氏が、神代に連なる「神別氏族」、皇族から枝分かれした「皇別氏族」、外国に出自を持つ「諸蕃」、出自が不詳の「未定雑姓」に分類された。 神道に関する法令としては、延喜式が927年(延長5年)に完成し、その巻1から巻10までが神道に関する法令に当てられた。この10巻を総称して「神祇式」とも呼ぶが、巻1・2は四時祭上・下、巻3は臨時祭、巻4は伊勢大神宮、巻5は斎宮寮、巻6は斎院寮、巻7は践祚大嘗祭、巻8は祝詞、巻9・10は神名上・下について記載された。 また、名神大社への奉幣も維持できなくなったことから、その中でも特に崇敬の厚い神社に対して特別の奉幣を行う祈年穀奉幣が行われるようになり、それが後に十六社奉幣へと展開し、随時追加されて二十二社制度へと収斂した。二十二社への奉幣は、中世後期の1449年(宝徳元年)まで行われた。 地方の祭祀においては、派遣された国司がそれぞれの国において国内の神社を序列化して参拝する神社の順序を定めた一宮制度が発達した。国司が参拝する神社は国内神名帳にまとめられ、後には二宮以下の神社を一つにまとめた総社も見られるようになる。
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