律例法体系の形成(明代から清代)
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「中国法制史」の記事における「律例法体系の形成(明代から清代)」の解説
元末の混乱の中から頭角を現し、元を駆逐して漢人王朝を打ち立てた明の太祖洪武帝は、職即位初年の1368年(洪武元年)正月に、吏律・戸律・礼律・兵律・刑律・工律の6篇285箇条からなる律と、吏令・戸令・礼令・兵令・刑令・工令の6篇145箇条からななる令を施行した。律の条文数は唐律の2分の1強、令は唐令の10分の1程度でしかない。わずか3カ月の審議で制定されたことからも当面の必要を満たす暫定的法典の性格が強かった。 篇成構成は、中央官庁である吏部・戸部・礼部・律部・刑部・兵部の名称を篇目とする「六部編成」という、律令の篇目構成としてはそれまでにない形式を採用する。元の法書によく見られる方式であり、元の影響を受けているといえる。元の影響が色濃く残る暫定的な律令は、モンゴル色の一掃と漢民族文化の復興を目指す明にはふさわしくないと考えたと思われるが、1374年(洪武7年)には唐律と同じ12篇目で構成された606箇条の律が制定された。このとき律のみ編纂され、令は編纂されなかった。これまで令で規定されていた事項を律に大幅に取り込んだので、令は実質的に機能を喪失した。律に関していえば、唐律形式への回帰は長続きせず、間もなく六部編成の冒頭に「名例律」を加えた7篇で構成されるようになる。 元でも実務に携わっていた明初の官員にとっては、大昔の唐律の篇目構成よりも、慣れ親しんだ六部構成の方が便利であるので、反モンゴルの理念より実務上の便宜を優先せざるを得なかったと思われる。 律は、その後数度の改正を経て、1397年(洪武30年)には、7篇460箇条の『大明律』として完成した。これは清においても若干の改定が行われただけで、清律として受け継がれた。明代はこの明律が重みをもち、律の改良ではなく、諭、旨などの単行命令で現実に対処した。明中期には、それらを整理、条文化して『問刑条例』としてまとめられた。これは清代にも受け継がれ、1870年(同治9年)には、1900箇条余りになった。 ところで、明代以前の前近代中国法においては、単行指令の集積による法の氾濫状態を避けるため、副次法典の編纂がほぼ必須のことだった。しかし明代においては、皇帝が即位するたびに前代の皇帝が下した単行指令を廃止し、リセットしていたため、建国から100年以上も副次法典を編纂しなかった。洪武帝が、子孫の守るべき家法として制定した『租訓』に、刑事法源は律に一元化すべきであるとしたからである。 しかし、皇帝が即位するたびに、同じような単行指令を下し直さなければならないのは、あまりに非効率なので、1500年(弘治13年)に副次法典として『弘治問刑条例』が制定された。このあと「問刑条例」は、嘉靖・万暦年間にも編纂された。 洪武元年の令は行政分野を中心とする非刑罰基本法典を目指すものであったが、法典としての実態をもたないまま、かなり早い段階で立ち枯れてしまった。急速に発展する社会の現実に対応するためには、機動性に乏しい令という基本法典にもとづく行政の運用は現実的でなくなったからと考えられる。 明は基本法典に則って行政を運用する「法典中心主義」をとらず、必要に応じて下される皇帝の単行指令や、その実施過程で生まれてくる先例によって行政を運用する「先例中心主義」の考え方に転換した。 しかし、単行指令や先例にもとづく行政は、制度全体の把握が困難になるので、『諸司職掌』や、その発展形である『会典』が編纂された。これらは、制度や規則を新たに定立する法典ではなく、現存する制度や規則を体系的に記述する「国制総覧」にあたる。 1636年に建国された清は、明の法制度をそのまま踏襲した。 刑罰法分野の基本法典として「律」が、副次法典として問刑条例を改称した「条例」が存在した。この律と条例は『大清律例』という法典に一体化された。律は建国から約100年間に4回編纂され、最終形の1740年(乾隆5年)の律は7篇436箇条の構成となった。4回の編纂作業はいずれも小規模な改定でしかなく、結局、清律は明律をほとんどそのまま踏襲した。 法の変動の役割を担ったのは条例だった。乾隆帝の治世(1735年 - 1795年)には、当初は3年ごと、後には5年ごとに、条例を編纂する方針が立てられ、多少の間延びはあったが、1870年(同治9年)に至るまで条例の編纂は繰り返された。 また清は、行政分野に関しても明の制度を基本的に踏襲した。明と同じように国政全般にわたる制度や規則を体系的に記述する『会典』が編纂された。これに加えて、中央官庁の部局や特定の政務についての規則・先例集である『則例』『全書』、地方についての規則・先例集である『省例』も編纂され、先例中心主義に基づいて運用される行政実務の遂行を支えた。
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