律例法体系の形成とは? わかりやすく解説

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律例法体系の形成(明代から清代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 10:30 UTC 版)

中国法制史」の記事における「律例法体系の形成(明代から清代)」の解説

元末の混乱の中から頭角現し、元を駆逐し漢人王朝打ち立てた明の太祖洪武帝は、職即位初年1368年洪武元年正月に、吏律・戸律・礼律・兵律・刑律工律の6篇285箇条からなる律と、吏令・戸令・礼令・兵令・刑令・工令の6篇145箇条からななる令を施行した。律の条文数は唐律の2分の1強、令は唐令の10分の1程度しかない。わずか3カ月審議制定されたことからも当面の必要を満たす暫定的法典性格強かった。 篇成構成は、中央官庁である吏部戸部礼部・律部・刑部兵部の名称を篇目とする「六部編成」という、律令篇目構成としてはそれまでにない形式採用する。元の法書によく見られる方式であり、元の影響受けているといえる。元の影響色濃く残る暫定的な律令は、モンゴル色の一掃漢民族文化復興目指す明にふさわしくない考えた思われるが、1374年洪武7年)には唐律と同じ12篇目構成され606箇条の律が制定された。このとき律のみ編纂され、令は編纂されなかった。これまで令で規定されていた事項を律に大幅に取り込んだので、令は実質的に機能喪失した。律に関していえば、唐律形式への回帰長続きせず、間もなく六部編成冒頭に「名例律」を加えた7篇で構成されるうになる。 元でも実務携わっていた明初の官員にとっては、大昔の唐律の篇目構成よりも、慣れ親しんだ六部構成の方が便利であるので、反モンゴル理念より実務上の便宜優先せざるを得なかったと思われる。 律は、その後数度改正経て1397年洪武30年)には、7篇460箇条の『大明律』として完成した。これは清においても若干改定が行われただけで、清律として受け継がれた。明代はこの明律重みをもち、律の改良ではなく、諭、旨などの単行命令現実対処した。明中期には、それらを整理条文化して『問刑条例』としてまとめられた。これは清代にも受け継がれ1870年同治9年)には、1900箇条余りになった。 ところで、明代以前前近代中国法においては単行指令集積による法の氾濫状態を避けるため、副次法典の編纂がほぼ必須のことだった。しかし明代においては皇帝即位するたびに前代皇帝下した単行指令廃止しリセットしていたため、建国から100年以上も副次法典編纂しなかった。洪武帝が、子孫の守るべき家法として制定した『租訓』に、刑事法源は律に一元化すべきであるとしたからである。 しかし、皇帝即位するたびに、同じよう単行指令下し直さなければならないのは、あまりに非効率なので、1500年弘治13年)に副次法典として『弘治問刑条例』が制定された。このあと「問刑条例」は、嘉靖万暦年間にも編纂された。 洪武元年の令は行政分野中心とする非刑罰基本法典を目指すものであったが、法典としての実態もたないまま、かなり早い段階立ち枯れてしまった。急速に発展する社会現実対応するためには、機動性乏しい令という基本法典にもとづく行政運用現実的なくなったからと考えられる。 明は基本法典に則って行政運用する法典中心主義」をとらず、必要に応じて下される皇帝単行指令や、その実過程生まれてくる先例によって行政運用する先例中心主義」の考え方転換した。 しかし、単行指令先例にもとづく行政は、制度全体把握困難になるので、『諸司職掌』や、その発展形である『会典』が編纂された。これらは、制度規則新たに定立する法典ではなく現存する制度規則体系的に記述する国制総覧」にあたる。 1636年建国された清は、明の法制度をそのまま踏襲した刑罰法分野基本法典として「律」が、副次法典として問刑条例改称した条例」が存在した。この律と条例は『大清律例』という法典一体化された。律は建国から約100年間に4回編纂され、最終形1740年乾隆5年)の律は7篇436箇条構成となった。4回の編纂作業はいずれ小規模な改定でしかなく、結局清律明律をほとんどそのまま踏襲した。 法の変動役割担ったのは条例だった。乾隆帝治世1735年 - 1795年)には、当初3年ごと、後には5年ごとに、条例編纂する方針立てられ多少間延びはあったが、1870年同治9年)に至るまで条例編纂繰り返された。 また清は、行政分野に関しても明の制度基本的に踏襲した。明と同じよう国政全般にわたる制度規則体系的に記述する会典』が編纂された。これに加えて中央官庁部局特定の政務についての規則先例集である『則例』『全書』、地方についての規則先例集である『省例』も編纂され、先例中心主義基づいて運用される行政実務遂行支えた

※この「律例法体系の形成(明代から清代)」の解説は、「中国法制史」の解説の一部です。
「律例法体系の形成(明代から清代)」を含む「中国法制史」の記事については、「中国法制史」の概要を参照ください。

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