律令祭祀以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:39 UTC 版)
縄文時代晩期から弥生時代にかけて、日本列島に稲作が伝わると、同時に稲作に基づく自然信仰も生じた。それは、自然と神を一体とみなし、神が自然災害という形で祟りを起こさないよう、捧げものを捧げたり祭祀を行うというものであった。 弥生時代には、新たな墓制である方形周溝墓、荒神谷遺跡などに代表される青銅器の祭祀、池上曽根遺跡の例のように後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ大規模な建物など、神社との連続性が指摘される事物が出土するとともに、鹿などの骨を焼いて占う卜骨が広範囲で出土したり、副葬品として鏡・剣・玉が用いられるなど、古事記や日本書紀に見られる神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる。 3世紀ごろ、大和地方の三輪山に纏向遺跡が営まれはじめるとともに、箸墓古墳など初期の大規模な前方後円墳が登場してくることから、この頃に大和王権が成立したと考えられる。この3世紀という年代は、鏡作坐天照御魂神社に伝わる三角縁神獣鏡や石上神宮から発掘された鉄製大刀が制作された年代と推定されており、記紀で語られる宝鏡や神剣のイメージと重なり、その後の神道信仰につながる要素が次第に明確になっていった。 さらにその後、4世紀には最初期の神道の国家祭祀が確認でき、福岡県宗像市沖ノ島の宗像大社では、銅鏡や鉄製武器など、4世紀後半の大和周辺の古墳副葬品と共通する祭器が大量に出土することから、この時期までには大和王権による沖ノ島での祭祀が開始されたと考えられる。また、銅製小型鏡など宗像大社と一致する祭器が三輪山でも出土しており、沖ノ島での祭祀とほぼ同時期に、後の大神神社に繋がる三輪山での祭祀がはじまった可能性が高く、最初期の神社である宗像大社や大神神社での祭祀が開始された4世紀後半が、後の神道の直接の原型が形成された時期であると考えられる。 5世紀に入ると、大和地方での祭祀と共通する石製模造品を用いた祭祀跡が全国的に見つかり、大和王権の祭祀が日本列島各地に広がったと考えられる。特に東国では、茨城県鹿嶋市の宮中条里大船津地区や、千葉県南房総市の小滝涼源寺遺跡などから多数の土師器、高杯、勾玉などの石製模造品が出土しており、大和王権による祭祀が行われていたと推定される。これらの地域における祭祀は、後に朝廷から重んじられて神郡が設置された鹿嶋神社や安房神社に繋がるものと思われる。 また、この5世紀代の捧げものとして、古墳副葬品であった鉄製品に加えて、千葉県の千足台遺跡や愛媛県の出作遺跡などから、須恵器や布帛も出土するようになっており、現在の神道における幣帛に繋がる捧げ物もこの頃に成立したと考えられる。 6世紀には、古墳の葬送儀礼の変化や、竪穴式石室から横穴式石室への変化が見られるようになる。古墳の儀礼においては、武器や武具を使う人や、捧げ物となる獣、貴人が騎乗する馬など、具体的なイメージを表現した形象埴輪を用いた葬送儀礼が確立した。そして、竪穴式石室から横穴式石室への変化に伴い、遺体と霊魂を分離して考える霊魂観が成立したと推定され、このようなことが記紀神話に見られる、人格的な神観の形成に影響を与えたと考えられる。
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