廃用と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 00:01 UTC 版)
ホワイトハウスを取り壊しダッチハウスも使う回数が減った理由は別にもあり、1800年頃から計画と設計案があった城壁宮殿がそれである。ジョージ王の使命を受けた建築家はジェームズ・ワイアット(en)で、ほぼ同時にウィンザー城の仕事を引き受けている。城壁宮殿はまたの名を「新宮殿」または「新キュー宮殿」としても伝わり、それと相照らしてダッチハウスは1800年から1828年にわたって「旧宮殿」もしくは「旧レッドハウス」と呼び習わした。 用地は古びたクイーンズハウスを解体して整え、ネオゴシック様式の建築は1802年頃に始まった。一部の歴史家は「後期ジョージアン・ノンサッチ」と呼び、ジョージ王はこの様式に遅まきながら乗り換え – 王は娘のシャーロット王女に宛てた1803年の手紙に次のように記した。 おそらく近隣のストロベリー・ヒル・ハウス、あるいはウィンザー城で手がけたかつての改修、はたまた訪問先のハートルベリー城(en・1788年)とウースター大聖堂(en・同)、ラルワース城(en・1789年)とシャーボーン城(en・同)に影響された可能性もある。設計主任はワイアットだったが、おそらく王も自ら関与し、キューで暮らした少年時代に、ウィリアム・チェンバーズの指導を受けた建築図面の腕を振るったと考えられる。王室の関与と干渉、王が1801年と1804年に病いに倒れたことから建設の遅延と支出超過を招いた可能性はある。新宮殿は広く批判の波にさらされ、1817年の著書『ロンドンからキューへの朝の散歩』でリチャード・フィリップス卿は、「その建物にこれほど似ていては、自由と自由人に不快感を与えてしかるべし」と批難して〈バスティーユ宮殿〉というニックネームを付けた。彼は続けた: ジョージ王は1805年8月にダッチハウスに立ち寄ると、皇太子妃キャロラインと孫娘シャーロットに謁見する。家族はその年の10月にダッチハウスに戻り、ウィンザー城で王女たちの部屋の改修工事が終わるまで滞在した。ジョージ王は1806年、生涯最後のキュー訪問のおりに城壁宮殿の建築現場を視察、1809年には結核にかかった末娘アメリア王女がダッチハウスに移って快復に努めたいと希望したため、改装される。しかしながら王と女王には許されず、王女はウィンザー城に留まり望みがかなわないまま1810年に亡くなる。おそらくそれが王の最後の「狂気」の発作を引き起こしたとされる。 この4回目の「狂気」の発作はまた、城壁宮殿の建築が永久に止まったことを意味し、ほぼ屋根をふき終えた外構だけが残った。およそ10年にわたる闘病のあいだ、王はキューではなくウィンザーに幽閉された。1818年、ロンドンにいたシャーロット女王はウィンザー城に出向き、王にも会う。ウィリアム王子とエドワード王子の結婚式が相次いで行われる予定で、途中、ダッチハウスで数日を過ごすうち浮腫が悪化してウィンザーに向かえなくなる。結婚式はダッチハウスの応接室で挙げる結果となった。その年の後半、シャーロット女王は建物1階にあった寝室で死去した。命日は11月17日。 ジョージ王はその2年後の1820年にウィンザー城で亡くなり、長男の王位後継者ジョージ4世は城壁宮殿の取り壊しを決めた。工事費の勘定を精査した議会(1800年当時の建築費4万ポンドに対し1811年の費用総額は50万ポンドに膨らむ)の承認を受け、すでに宮殿に収めてあった備品と付属品を撤収して他の王宮に送るよう命じ – 取り外した階段は後にバッキンガム宮殿に転用された。解体が始まる1年前には次のような記事が載っている。 Innumerable are the instances of princes having sought to perpetuate their memories by the building of palaces, from the Domus Aurea, or golden house of Nero, to the comparatively puny structures of our own times. As specimens of modern magnificence and substantial comfort, the latter class of edifices may be admirable; but we are bound to acknowledge, that in boldness and splendour of design, they cannot assimilate to the labours of antiquity, much of whose stupendous character is to this day preserved in many series of interesting ruins:—Whilst in the progress of the long decay, Thrones sink to dust, and nations pass away. As a record of this degeneracy, near the western corner of Kew Green stands the [Castellated Palace] ... [its] north front possesses an air of solemn, sullen grandeur; but it very ill accords with the taste and science generally displayed by its nominal architect [George III]. ... [Its foundations are] in a bog close to the Thames, and the principal object in its view is the dirty town of Brentford, on the opposite side of the river; a selection, it would seem, of family taste, for [George III's grandfather] George II is known to have often said, when riding through Brentford, "I do like this place, it's so like Yarmany [ie Germany]." The premature fate of [the new] Kew Palace renders it at this moment an object of public curiosity
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