幕内初優勝・大関昇進・関脇陥落・再昇進
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「武双山正士」の記事における「幕内初優勝・大関昇進・関脇陥落・再昇進」の解説
2000年1月場所では、千秋楽に魁皇(当時関脇)を下して13勝2敗、関脇の地位で念願の幕内初優勝を達成した。久々の大関取り再挑戦となった、翌3月場所でも12勝3敗の好成績を残し、三役で3場所通算35勝(10-13-12勝)を挙げ、ようやく遅咲きの大関昇進を果たした。大関昇進伝達式では口上に「正々堂々」の文言を用いた。 ところが、その新大関だった5月場所は腰椎椎間板障害で初日から全休。いきなり大関角番で臨んだ7月場所でも腰痛が完治しないまま強行出場したが、結局11日目の土佐ノ海戦で3勝8敗と、大関の地位で2場所連続の負け越しが決定、大関在位が僅か2場所で関脇に陥落の屈辱を味わった(同7月場所は4勝11敗と、武双山自身千秋楽迄皆勤した場所ではワースト敗戦の記録となる)。皆勤負け越しにより角番脱出失敗は「2場所連続負け越しか休場で大関から陥落」とする現行制度では史上初。現在の制度で考えうる最短在位である。それでも関脇に陥落した直後の9月場所で、千秋楽に勝利して10勝5敗、大関特例復帰規定(取り組み日数(現在は15日間)の三分の二(同・10勝)以上の勝ち星を挙げること。ただし、何らかの災害等のため増減が有った場合でも、その三分の二以上で計算する)に達して1場所で大関に返り咲いた。奇しくも師匠の武蔵川(元横綱・三重ノ海)も、大関から関脇陥落した1976年7月場所において、1場所で大関特例復帰を経験している。 大関再昇進後の2001年3月場所には大関魁皇らと優勝を争い、千秋楽に魁皇に敗れたものの12勝3敗の優勝次点という好成績を残した。翌5月場所では、14日目に貴乃花を巻き落としで下す(詳細は後述)相撲も見せ、自身5年ぶりに5月場所で勝ち越した。この取組で貴乃花は右膝半月板を負傷し、千秋楽に強行出場して優勝したものの、翌7月場所からの7場所連続休場を余儀なくされた。しかし、5月場所以降の武双山は最高の成績でも10勝5敗に終わり、優勝争いに参加することは殆ど無い状態だった。力士晩年には途中休場や皆勤負け越しも記録して大関を保つのがやっとで、大関角番と角番脱出の繰り返し、という土俵が続いた。素質からは横綱を期待する声もあったが、左肩脱臼を繰り返すケガなども有って果たせなかった(他に腰痛や足の親指の怪我が致命的だった)。 なお2003年11月場所まで大相撲には「公傷制度」(本場所中に土俵上の大怪我で翌場所全休しても、その翌々場所は翌場所と同じ地位に留まれる制度)が存在していた。しかし2003年3月場所6日目、武双山は左肩脱臼のケガで全治2か月の診断書が出て途中休場したものの、当時の公傷適用は却下されてしまう。師匠の武蔵川親方が抗議したものの、審判委員らはその理由として「脱臼は古傷の繰り返しによるもので、来場所までに回復して相撲が取れるはず」というものだった。左肩の具合が完全に回復しないまま強行出場となった、翌5月場所は通算2回目の大関角番となったが、千秋楽に8勝7敗と勝ち越し角番を脱した。その後も武双山は2003年9月場所5日目、左ひじの骨折を起こし再び全治2か月の診断書が出て途中休場したが、これも公傷認定はされなかった。翌11月場所も9勝6敗と勝ち越して通算3回目の大関角番を脱出。この事から当時の北の湖理事長は公傷廃止を提案し、結果2003年11月場所限りで「公傷制度」は廃止となった。
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