幕内優勝~大関同時昇進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 10:08 UTC 版)
「栃ノ海晃嘉」の記事における「幕内優勝~大関同時昇進」の解説
それでも、1958年1月場所で負け越した以外は十両昇進まで全て勝ち越しており、1959年1月場所で新十両昇進を果たした。同年10月に春日野が亡くなると、部屋は二枚鑑札で栃錦清隆が継承した。栃錦の現役時代は、雪や北風が吹き荒れる露天興行の土俵でも休まず稽古を続ける姿を見たことで責任感の強さを感じ、本人曰く「よい教育になった」という。また、序ノ口時代は同部屋の力士が50~60人ほど在籍していたことから、稽古土俵を取られないように午前4時半には起床していたという。しかし、声を出して四股を踏んでは近所迷惑になるため、それには困ったと苦笑しつつ述懐していたという。 1960年3月場所で新入幕を果たすが、まだこの当時は身長177cm・体重88kg程度で、2場所で陥落。しかし、十両に陥落した同年7月場所は14勝1敗で十両優勝を果たし、9月場所に四股名を「栃ノ海」と改めて再度入幕すると、10勝5敗の好成績を挙げた。1961年5月場所は2日目に横綱朝潮太郎から金星を挙げるなど10勝5敗、新三役(小結)に昇進した同年7月場所では11勝4敗と先場所に続いて二桁勝利を挙げた。9月場所には関脇に昇進して8勝7敗と勝ち越してからは関脇の座を譲らず、1962年5月場所では横綱柏戸剛に敗れたのみの14勝1敗で初の幕内最高優勝を果たした。この場所は新大関として佐田の山晋松がいたが、新大関の在籍場所で関脇以下の優勝は、戦後の15日制下では史上2例目だった。 場所終了後、13勝2敗だった兄弟子・栃光正之と共に大関へ昇進した。同じ部屋から2人同時の大関昇進はこの組み合わせを最後に約60年間出ていないが、同部屋であるためか昇進伝達式はまとめて行われた。
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