幕内定着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 03:07 UTC 版)
新弟子時代の頃の立浪部屋を「1日、2日おきには新弟子たちがずらっと並んで、部屋には70人近くいたと思う。寝るところにも困って、稽古場、女中部屋にまであふれていた」と本人は述懐している。この頃の立浪部屋は出羽海部屋のように一門連合稽古のようなことは行わず、新弟子時代には親方衆も少なかったため自分で相撲四十八手の本を買って相手がいると思って1人で技をかける相撲版シャドーボクシングのようなことをやるなどして、当時の大抵の所属力士達が自分のコンディションを中心として調整したように北ノ洋自身も稽古を積んだ。入門後は第二次世界大戦が激化したが、幸いにも兵役に取られることが無いまま着実に昇進し、1948年10月場所にて新十両昇進を果たした。初めは軽量ながら立合いに頭で当たり、四つに組んでから投げを中心に俊敏な変化を交える半端な相撲だったが、体重が増えて着実に力を付けていくと左を差してから右で押っ付けて一気に寄り切る取り口に変わった。この結果、1950年9月場所で新入幕を果たしてからは上位陣、とりわけ朝潮太郎には滅法強くなり、他にも東富士欽壹・栃錦清隆・千代の山雅信などといった戦後間もない頃を代表する名横綱を度々苦しめ、獲得した金星10個は当時の最多記録だった。 1957年11月場所において腰痛と左足首関節を捻挫して以降は、稽古での申し合いを減らした上で、通勤ラッシュで混雑する平日朝8時頃の両国駅の階段を廻し姿で昇り降りするなど、足の鍛錬を増やしていった。本場所では負け越す回数が増えていくが、怪我をしたならば北の洋なりの回復方法を探って、少しでも長く幕内で活躍しようとする姿勢に、驚く乗客もいたが激励の声も多かった。
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