幕内昇進、大関獲りの行方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 04:55 UTC 版)
「天竜三郎」の記事における「幕内昇進、大関獲りの行方」の解説
当初はあまりの不器用さと非力から稽古でも苦戦していたが、身体が柔軟なことと長身を生かした突っ張りから、右四つで吊りながら土俵際まで寄る取り口に変わったことで、半ば強引ながら強みを増した上手投げも武器とした。幕下までは習字の上手さを見込まれて常ノ花寛市の付き人を務めていたが、横綱から頼まれた手紙書きに追われて稽古が出来ずに低迷して以降は、師匠の付き人に変わったことで猛稽古で遅れを取り戻した。1922年に常陸山が亡くなってからは、6代・出羽海を襲名した両國梶之助 (國岩)の付き人を務めた。長く付き人を務めていたことで稽古不足から出世が一時的に遅れたが、インテリであることや色白の美貌も観客の人気を呼んで順調に出世し、1927年5月場所で新十両昇進、1928年5月場所で新入幕を果たした。 1930年3月場所では10勝1敗で常ノ花と並んだが、同部屋だったことで本割での対戦が無かったこと、当時は優勝決定戦はなく、同点の場合には番付上位の者が優勝となる制度だった不運が重なり、幕内最高優勝は常ノ花となった。この場所で前頭筆頭だった天竜は、場所後に小結を通り越して関脇へ昇進した。 関脇に昇進した天竜は、次の大関を掛けて同部屋・6歳年下の武藏山武と激しく昇進を争った。1931年の満州巡業では最終日に組まれた両者の対戦が水入りの大一番となり、その決着のために巡業の予定を一日延長したほどだった。のちに「松翁」となる木村庄之助 (20代)も、自身が裁いた取組で最も記憶に残る一番に挙げたという逸話が残っている。結局、大関昇進争いは後輩の武藏山に軍配が上がった。 1931年5月場所8日目の能代潟錦作戦では勝負が決着せず、双方の希望によって10日目番外の取組を設けて再戦、吊り出しで天竜が勝利した。この再戦もまた水入りになる大相撲で、その影響もあってか、本割では天竜は玉錦に、能代潟は武蔵山にそれぞれ敗れたが、打ち出し後に日本相撲協会から敢闘精神を讃える特別表彰を二人で受けた。
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