幕内昇進~現役引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:34 UTC 版)
1985年3月場所において、大学時代からのライバルである栃乃和歌清隆(明治大学)と共に幕下付出で初土俵を踏んだ。その後も栃乃和歌と競い合いながら精進し、1986年3月場所で新十両昇進、1987年3月場所で新入幕を果たすと同時に、四股名を「小林山」から出羽海部屋伝統の「両国」へ、下の名も1989年9月場所から「梶之助」へそれぞれ改名した。入幕から2場所連続で勝ち越したことで同年7月場所では早くも小結へ昇進し、早くも大関候補として周囲から期待されたが、何度か好機がありながら関脇には昇進できず、幕内中位に甘んじていた。 その後も小結から前頭上位を行ったり来たりしていたが、千代の富士貢を3度に渡って破るなど「千代の富士キラー」ぶりを発揮し、再度の関脇昇進を目指していた。しかし、1992年7月場所で左大腿部屈筋を挫傷する重傷を負ったため、12日目から途中休場となる。大学時代に痛めた腰の負傷によって、以降は思うような相撲が取れなくなり、同年11月場所では2勝13敗と大きく負け越して十両陥落、さらにその十両でも腰の怪我によって途中休場したことで、1993年1月場所では幕下転落が確定的になっていた。このため、1992年12月に現役引退を発表し、年寄・中立を襲名した。
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