寿町診療所での日々
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赴任以来、佐伯は日雇い労働者たちをはじめ、毎日100人以上の患者たちを診療する日々を送った。当初は週3回、午後のみの診療だったが、患者の増加に伴い週5回の午前と午後の診療となった。 寿町での診療は、人間ドラマの連続ともいうべき日々であった。初出勤当日から、出勤に用いた自家用車に住民から小便をかけられ、車を棒で叩かれ、その後も車に小便やカップラーメンをぶちまけられた。診察中に小便をかけられたこともあった。診察室でアルコール依存症の男性患者に剃刀の刃で襲われ、ガードマンや男性職員たちに助けられたこともあった。その3年後には、駐車場で首を絞め上げられ、やはりガードマンや男性職員たちに助けられたこともあった。一時は死を覚悟したこともあるが、こうした経験で逆に、怖いものがなくなったという。 患者は、アルコール依存症患者、薬物中毒患者もおり、入れ墨を入れた患者は数えきれなかった。刑務所帰り、失踪者、家出中、住民票がとれないといった、「わけあり」と呼ばれる者も多かった。路上強盗の被害者もいれば、刑務所で男性器に碁石を埋め込まれた患者、同性愛者から肛門にラムネ瓶を突っこまれた患者もいた。横浜浮浪者襲撃殺人事件では、被害者8人のうち4人が佐伯の患者であった。その2年後の1985年に横浜市南区で、路上強盗を取押えた大学生の死傷事件が起きたが、その犯人グループ3人のうち2人も佐伯の患者である。 こうした住民たちから佐伯を守るよう、受付事務として勤める職員は空手5段やウェイトリフティングで鍛え上げた屈強な男性であり、待合室にもガードマンがいた。診察室は横浜市医師会立ち合いのもとで設計され、襲われた場合の退避経路も考慮され、随所に非常ベルが隠された。もっともブザーは後に、患者と心を込めて向き合う際に、ブザーの方へ向き直ってはいけないとの考えで、佐伯により取り外された。 また、酒に酔ったまま訪れる患者や暴れる患者たちに、自分自身の姿を見せようと、待合室に全身が映る大きな鏡を取り付ける等の策を講じ、十分な効果を得た。人は自分の姿を見ると正常に戻るのか、診療所のドアは何度も壊されたにもかかわらず、この鏡が割られたことは一度もなかった。加えて、診療所はビルの3階にあったが、患者には喧嘩などによる負傷者が多く、一方では高齢者、身体障害者が増加しており、診療所を訪れること自体が負担になっていた。これに対処するため、1988年(平成10年)に診療所を1階へ移設して待合室などを拡張するなど、利用者の立場に立った改善を行い、大変好評を得た。 診察においては、時に優しく、時に厳しく患者へ接した。あたかも、母親が息子の友だちに接するようでもあった。患者1人1人に対し、まるで生活史を作るかのように家庭と生活環境について詳細な事情を訪ねることを大事にしていた。もっとも、このやり方は診察の時間を要し、大勢の受診者を効率良く捌くことが難しいため、それに業を煮やした患者が、前述のように剃刀で襲いかかるといった事態の要因にもなっていた。また土地柄、どんなに不潔な患者が相手でも、素手で診療することを良しとした。 寿町の住民は貧困から日雇いの保険すら入っていないことが多いため、横浜市と掛け合い、寿町特有の制度として、診療費を貸し付けとして後で返金する特別診療の制度を設けた。これにより診療費の所持がなくても診察だけは可能なため、住民たちからは大いに感謝を受けた。 結核患者の増加が問題となった際には、国立病院機構南横浜病院と連携し、寿町診療所を拠点としたDOTS事業(結核患者が看護婦の直接の監視下による短期化学療法)の実施にも尽力した。 家庭の主婦でもあることから、朝7時過ぎに自宅を発ち、8時過ぎから13時まで南部市場での診療所に勤め、それから自動車で寿町の診療所へ向かい、昼食は赤信号で車を停めるたびに弁当を数口ずつ食べるだけ、といった生活を送った。家事を分担して受け持つ夫、炊事を手伝う長女の協力もあった。 後述するように寿町での医療に対する批判もあったが、それでも、日本経済の繁栄の狭間に生きる人々の救済のため、寿町での診療を続けた。
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