寿王妃から女冠へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:36 UTC 版)
開元23年(735年)、玄宗と武恵妃のあいだの子の寿王李瑁(第十八子)の妃となる。李瑁は武恵妃と宰相の李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、開元25年(737年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官の高力士の薦めで李璵(後の粛宗)が皇太子に冊立された。 開元28年(740年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて一時的に女道士(女冠)となった(このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。 楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。
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