対国家戦争の準備 (1994年)
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「オウム真理教の歴史」の記事における「対国家戦争の準備 (1994年)」の解説
1994年(平成6年)2月22日から数日間、麻原は信者80名を引き連れて中国へ旅行し、自分の前生とする朱元璋ゆかりの地を巡った。旅の途中、ホテルで信者に対し、善のために財を使うならば盗み取っていい、悪業を積んでいる魂は長く生きるほど地獄での苦しみは大きくなるので早くその命を絶つべきだといった五仏の法則について説き、「1997年、私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。」と予言し、「真理に仇なす者はできるだけ早く殺さなければならない」と説いた。 帰国直後の2月27日、麻原は「私や教団が毒ガス攻撃を受けている。このままでは殺されるからホテルに避難する」と言って都内ホテルに移動、「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない」と言い、サリンによる壊滅後の日本を支配して、オウムが生き延びるための食糧調査の必要を訴えた。その翌2月28日,千葉市内のホテルに移動し、自動小銃1000丁を1,2か月で完成させ、また自衛隊を取り込むために自衛隊員の意識調査、及び東京壊滅後の理想社会を作るための作業としての日本社会の調などを信者らに指示した。 1994年3月10日、麻原は幹部に対して「警察官全員をポアするしかない。警察組織がある限り、救済は成功しない」「ゲリラで警察を全滅させよう」と語った。翌3月11日に仙台道場において麻原は「日本を闇からコントロールしている組織やそれと連動する公安」が毒ガスを富士山総本部、第2・第6サティアンに対し噴霧し続けてきたと述べ、「オウム真理教がこのままでは存続しない可能性がある。オウム真理教が存続しなくなるとするならば、この地球は、そしてこの日本は完全なる壊滅の時期を間もなく迎えるであろう。私の弟子たちや信徒は立ち上がる必要がある。皆さんの周りの多くのまだ無明に満ちた魂をしっかりと真理に引き入れ、この日本を、この地球を救う必要がある」と説き、「もともと私は修行者であり、じっと耐え、いままで国家に対する対決の姿勢を示したことはない。しかし、示さなければ私と私の弟子たちは滅んでしまう」と対国家戦争に言及した。3月中旬には沖縄で「もうこれからはテロしかない」と麻原は言い、自衛隊出身や武道経験のある出家信者十数名に軍事訓練キャンプをさせた。 1994年4月6日から数日間、沖縄での軍事訓練を受けた信者から選抜した約10名をロシアに派遣し、ロシア軍特殊部隊スペツナズ指導の厳しい軍事訓練を受けさせた。この中には平田信も含まれていた。帰国した信者らに対して、訓練を撮影したビデオに表れた浮ついた態度に腹を立てながら「お前たちはこれから死んでもらう,オウムから抜け出したら殺す」と言った。1994年9月にもロシアでの射撃訓練は行われた。1994年5月には映画のエキストラと称し募集したホームレスを「白い愛の戦士」部隊として編成し、1994年10月まで山間部の施設で訓練を施した。 1994年頃には、アメリカからも毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過すると毒ガスだと言って車に駆け込み退避を命じた。中川智正によるとこの被害妄想は1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという。1994年10月25日の清流精舎説法で、この1週間教団は毒ガス攻撃を受けたと麻原は述べる。 1994年内に幹部の早川はロシアから一時帰国した際、「尊師が大変なんですよ。過激で」と上祐に語っている。
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